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庶民の文化、公家の文化、武士の文化

日本文化が、今の現代日本では遠いよね、という話を書きました。

結構、賛同いただいたようで、ありがとうございます。

じゃ、なんで、日本文化って、今、遠いんだろうということになるわけです。

きっと、文化の担い手が変わったからではないか、というのが直感的に浮かびますが、じゃ、文化の担い手って誰だったの、ということになります。

そこで、日本文化を担い手別に分けると、表題のように、庶民が愛した庶民文化、公家が庇護した公家文化、武士が誇示した武家文化、というようになるかと思います。

庶民文化って何?

まあ、私なぞが言わなくても、江戸時代の文化を支えたのは、江戸庶民だったと言われています。天皇の周辺にいる公家や、政治を支えた幕府につながる武家でもなく、一般庶民が楽しんだものが文化として継承されているのが、江戸期に平和が長く続いた日本の特徴である、とされます。

歌舞伎、浮世絵、相撲といった芸能・芸術だけではなく、髷や化粧の流行も、着物の柄や帯の結び方なんていうのも、吉原芸者や歌舞伎役者から町民に広がっていく様は、まるで今のモデルやタレントから流行が生まれるのと変わりありません。

そうしたエネルギー溢れる庶民文化が江戸時代に、江戸と上方(大坂)で生まれ、日本各地に広がっていったというのが、日本文化を誇る人たちの定説と言えます。

でも江戸期に広がった文化は、それだけではないのではないかと思います。

公家文化は廃れたのか?

公家が力を持ったのは、室町時代までで、その室町時代に足利将軍家が芸術に力を入れたのが公家文化だと思われがちです。金閣寺の北山文化とか、銀閣寺の東山文化とかね。でも、これも武家文化と公家文化の融合であって、影響を及ぼすベースとなる公家文化は、その前から連綿と続いているわけです。その公家文化は、江戸に将軍が行こうと幕府がどこにできようと揺らがない強さを有していました。天皇さえいれば、公家は安泰なのです。

だから、江戸期も公家は隠然と力を有し、政治的にも徳川将軍家と綱引きをしていたわけです。そうじゃなければ、突然幕末に京都が主役になったりはしないでしょう。確かに、天皇の即位に幕府が口出ししたり、公家の婚姻は武家のステイタスアップに使われたりといった、江戸中心の見方がされがちです。でも、公家の力というのを強く感じるのは、実は、囲碁や書、詩歌、能や狂言、茶や生け花といった元々京都発祥の文化の流布と栄枯盛衰の中にです。

私がそれを感じたのは、天地明察という小説の中でした。

ご存知の方も多いでしょうが、囲碁と暦の話です。

でもこの中に出てくる公家の力の強いこと。映画もいいですが、ぜひ原作を読んでいただきたい。算哲が何十年にも渡って、公家と武家の暦における主導権争いに巻き込まれていく後半を読むと、暦というのは時の権力者のものであることがわかります。

何が言いたいかというと、どうしても江戸という都市で起きたことを中心に江戸期を見ると、公家をないがしろにしがちですが、それは上方をないがしろにするのと同様かそれ以上に、江戸期の日本文化の形成というものを見誤るんじゃないか、という感じがするんですね。

武家文化と庶民文化の融合が江戸文化では

武家は江戸期には、士農工商といって威張っていた、と日本史の時間に歴史の教科書で習いがちですが、決してそんなことはなかったことがわかっています。むしろ、米本位制度の中で現金が乏しい下級武士の暮らしは、庶民と変わらないか、それ以下であり、副業をしないと生きていけないほどでした。その副業の多くが、江戸文化を支えていたとも考えられます。

最もメジャーな副業は、万年青や朝顔といった江戸時代に流行した植物の栽培でした。間口が狭く奥行きが長い住居の裏側の土地を耕して栽培に勤しんでいたわけです。

それほど広い土地を持っていない武士は、様々な内職をしていました。その多様な内職が江戸文化を支える諸産業の下支えとなっていました。

また、浮世絵書きや職人の多くは武家の次男、三男で、武家のたしなみとして基礎教育を受けていた人たちだったことも知られています。庶民は、読み書き算盤は習っても、書や絵画、詩歌などに勤しむというわけにはいきません。しかし、武家のたしなみという言葉で知られるように、教養を身につける必要があった旗本や御家人の家では、文化に触れる機会もあり、そうした素養のある人物が江戸文化を支える側に回ったというのが事実です。多くの文人・画人が元武士であった、というプロフィールを持っています。

結局、庶民が消費の多くを支えていたことが特徴的なのかもしれませんが、庶民文化といわれるものを生み出す側には、多くの武士が関わっていたという意味で、武家文化と庶民文化の相互交流と融合が江戸文化になったと言えるのではないでしょうか。

武家が囲い込んでいた相撲取りが、武家では担いきれず興行の形式をとるようになっていき、茶道、連歌、華道といった武家のたしなみを金持ちの町民が習い、広め、徐々に庶民にも広がっていく、というのが江戸期だったとも言えます。

基礎教養の高さと識字率の高さが江戸庶民の文化度を高めたといわれますが、その背景にあるのは、武家への奉公と身分を問わない趣味の会の存在ではないかと思います。

町民の子女の教育の場としての武家への奉公というのが、女性の識字率を挙げ、基礎教養の共有というものにつながったのでしょう。母親の教育レベルが高いほど、子供の教育レベルが上がることは今でも変わりません。

また、句会や囲碁の会などの場は、武家、町民、僧侶などの身分を超えた場になっていて、そこで色々な情報交換があったことは、吉良上野介が吉良邸にいる日時を知るために茶会の開催が使われたことでもわかるかと思います(こんな風にまとめている人がいました)

江戸文化は単に庶民文化というだけではない

ということで、考えてみれば当たり前なのですが、日本文化というときに、その中心には江戸庶民文化があるとしても、その江戸庶民文化自体が、武家文化や公家文化の流れを汲み、融合し、ある進化をして生まれていると言えます。また、上方の流れと言うのも歌舞伎を考えるにしても、浄瑠璃や義太夫を考えても、外せないものになってきます。落語の「寝床」や歌舞伎の「封印切(恋飛脚大和往来)」などは、上方の文化なしには語れません。

だからこそ、こうした多面性を面白がりながら、日本文化という不思議なものを考えていきたいものだと思う次第なのです。


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