「注文をまちがえる料理店」に思うこと

いま私が勝手に注目しているのが「注文をまちがえる料理店」です。

すでに知っている方も多いと思いますが、認知症の人が接客をする料理店です。認知症の方なので「注文をまちがえる」かもしれない、テヘペロ。ということなんですね。

「注文をまちがえるなんて、変なレストランだな」
きっとあなたはそう思うでしょう。

私たちのホールで働く従業員は、
みんな認知症の方々です。
ときどき注文をまちがえるかもしれないことを、
どうかご承知ください。

その代わり、
どのメニューもここでしか味わえない、
特別においしいものだけをそろえました。

「こっちもおいしそうだし、ま、いいか」
そんなあなたの一言が聞けたら、
そしてそのおおらかな気分が、
日本中に広がることを心から願っています。

――「注文をまちがえる料理店」に掲げられたステートメントより

コンセプトは、この動画を見ていただきたいです。

2017年6月にプレイベント、9月に六本木で第1回が開催されています。この時の開催費用はクラウドファンディングを活用。

それから、地方自治体との連携で各地でイベント開催されている状況になり、今では一般社団法人として活動しています。

活動については発起人の一人であるテレビプロデューサーの小国さんが本を書いてました。

この法人の代表理事が和田行男さん。

認知症ケアに長年取り組み、施設を運営してきた方です。

一般社団法人「注文をまちがえる料理店」代表理事
認知症ケアの第一人者。高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理担当から福祉の世界へ大転身。特別養護老人ホームなどを経験したのち97年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。株式会社大起エンゼルヘルプでグループホーム・デイサービス・認知症デイサービス・ショートステイ・特定施設・小規模多機能型居宅介護を統括。2016年から「注文をまちがえる料理店」の企画・運営に参加し、2018年の法人化とともに代表理事に就任した。『大逆転の痴呆ケア』『認知症開花支援』他、著書多数。

私がこの料理店のことを知ったのは、実は、かなり最近で、今年3月に厚生労働省で開催した記事を読んだことでした。

なんて画期的な企画なんだ、と驚きました。

認知症の人が社会と接する機会を作り、いずれは普通に働くことができる時代が来るかもしれない。そういうイメージを持たせてくれるイベントでした。それを厚労省で開催するという優れた発想とそれを実現する行動力。その原動力は、どこからきているんだろうと思ったのを覚えています。

しかも、法人になっていました。これも驚きです。

単なるイベントじゃない。社会的なアピールだけではなく、継続した活動として社会に定着していく意志を感じます。

法人のメリットを代表の和田さんは語ります。

まず商標登録の申請ができました。認知症の方と雇用契約を結んで、お給料としてお金を渡せるようになったことも大きいですね。1回目と2回目のときは任意団体で雇用契約が結べなかったので、謝礼金という形で東京都の最低賃金(時給)相当額を支払いましたが、法人化した後に開催された第3回は雇用契約を結んで、時給1000円を支払っています。また、法人化によって明確な拠点ができたので、「自分の住む地域でも同様の取り組みをやってみたい」「働いてみたい」「取材したい」といったさまざまな問い合わせに即座に対応できるようになりました。問い合わせは外国からも来ますからね。寄付も集めやすくなるなど、これまでできなかったいろいろなことができるようになっています。

実際に、各地の自治体との共催で地方開催が行われています。

そんなやり方があったのかという驚きとともに類似イベントを開催する人たちも出てきています。

でも、和田さんは、ただ流行っているからやってみたいと思う自治体が出てくることには、なんでも良いわけではなく、考え方の共有も求めています。

そして、この活動の意図をこんな風に語ってます。

僕たちは新しいことをやろうとか、新しい社会を目指しているわけではなく、今ある社会の中で生きていけるようにしていく、つまり今まであまりにも遅れていてできなかったことをこれからはできるようにしているだけなんです。

「社会に出て働くことが良いこと」なのではなく、選択肢として提示できるようにして行くことが良いのです。

現在、政府が提示する社会とは「一億総活躍社会」ですが、その言葉には、働くこと、社会で活動すること「だけ」が素晴らしいという意図が込められているように思えます。でも、体に制限があったり、心に制限があったりして思うように活躍できない人はどうすれば良いのでしょう。そういう人が選択する道が少なくあまりにも厳しいのが現状の日本社会ではないでしょうか。

社会に選択肢を提示し、どの道を選んでも生きていける、それが政治の役割、政府の仕事なのではないか、とも思います。

この記事でも書きましたが、生活保護を受ける世帯の少なさは、生活保護という選択肢が、必要なはずの人たちに受け入れられてないということを意味します。それは、生活保護をもらうと暮らしにくいと思われているからではないでしょうか。生活保護なんだから、こう暮らせという無言のプレッシャーが社会にあるからではないでしょうか。

同じように、認知症の人はこうあるべき、という狭い枠組み(思い込み、フレーム、スキーマなど)が社会にあるように思います。でも、そうした檻に押し込めるような社会ではなく、広く選択肢を提示できる社会を作ること、それが和田さんの考える社会なのでしょう。

認知症の方を閉じ込めていたら、どのような状態なのかわからないから、「認知症になんかなりたくないな」と怖がられ、距離を置かれていく。でも認知症の方と接する場面が増えれば、「こんなふうに暮らしていけるんなら、俺は認知症になってもいいなと思ったよ」って変わっていけるわけですよ。

そういう社会の変化を感じていると和田さんは語りますが、そういう社会の変化を起こす取り組みをしてきたのが和田さんだから、そう感じられるとも言えます。まだまだ、和田さんが周りにいない人たち、多くの地域で、認知症施設を反対するような雰囲気は残っているでしょう。認知症を忌避するような社会を、どう減らしていくのか。それには開いていくしかない。

でも、認知症患者ではなくても、みんなが認知症の当事者なのです。

こんなことを言ったら誤解されるかもしれませんが、認知症の当事者は認知症の本人だけじゃない。病気の当事者は本人だけれども、認知症は病気によっておこる状態なので、その状態で影響を受ける人すべてが当事者なんです。家族や介護の仕事に携わっている人はもちろん、もっと広く言えばそのために税金を払っている国民も当事者。

高齢化が進み、高齢者の方が多くなる社会が近づいている中で、社会に溢れる認知症高齢者は、いずれ特別なものではなくなります。

そこでどういう社会を作るかといえば、やはり共生する社会でしょう。

みんなが年を取ってきて、痴呆から認知症という言葉に変わり、認知症に関わるニュースが頻繁に取り上げられるようになって、自分の身近にも認知症の人が増えて、身近に受け止められるようになった。自分も当事者だと実感できるようになってきているのではないでしょうか。

当事者として生きること。

それが、和田さんが社会に向けておっしゃりたいことなのでしょう。

認知症に限らず、自分が何かの当事者であるという意識が行動を変えていくのだろうと思います。

私は、何の当事者なのか、それが最近の自問自答の問いになっています。


サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。