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環境問題をスウェーデンのヨーテボリから考える記事を読んでみた

今日は、これまでと変わって時事ネタというか、社会ネタ。

#なんでないの活動をリードする福田和子さん(TOP画像の方)が書いた記事。

福田和子さんとは、吉原活動で知り合って、もう5年くらいになるだろうか。彼女が、スウェーデンに留学する前には壮行会に参加したくらいには親しいので、記事が出るときになって読むわけだ。

あれからまだ2ヶ月だというのに精力的に活動している彼女は、スウェーデンのヨーテボリ大学の大学院に通いながら、現地でいろんな運動に参加して経験したことを各種の日本のメディアに書いている。

9月末に開催された地球温暖化に関する金曜ストライキに現地で参加したことを現代で寄稿した。現地での体験なので、日本の識者の声などではわからなかったこのストライキのこと、グレタさんへの考え方などがわかる。

最初に、福田さんは、このストライキの意義が、これまで日本で報道されていた内容とちょっと違うことに気がつく。

中でも、私の目に焼き付いたのは、数々の「気候ではなくシステムを変える」というプラカードだ。これはグレタさんも掲げる「Climate Justice:クライメート・ジャスティス(気候正義、気候の公平性)」の考えに基づいたもので、環境問題を単なる気候の問題とのみ捉えるのではなく、社会的、倫理的、政治的な課題として問題提起する考え方だ。

経済成長を主張する大国の大人たちへの怒りをあらわにしたグレタさんの国連でのスピーチから、大人対若者、大国対小国、過去対未来というような対立軸を見出した語り方がされがちな環境問題だが、その部分はあるにしても、その背景にあるのは「公平(Justice)」という考え方だという。

この「公平」という概念は、西洋ではよく出てくるのだけど、日本人にはわかりにくい気が以前からしている。神のもとでの平等という宗教的理念に裏打ちされた社会での「公平さ」と、なんとなく決められた社会規範と共同社会の中の共同幻想で空気を乱さないことを良しとするムラ社会における日本的平等とは大きく異なる。

福田さんの説明ではこうなる。部活動のタテ社会を例に出して日本を説き、スウェーデンの入学オリエンテーションでの学生の義務と権利の話を引き合いに出す。

たった数ヶ月生まれた時期が遅いだけで理不尽な要求も受け入れなければならない、仕方がないと無力感を刷り込まれる社会と、たとえそれが大きな組織相手であってもあなたの権利は守られていいと教えられる社会。これは、日本に生まれ育った上で、スウェーデンでの生活2年目(過去の留学あわせ)を迎える私が感じる日本社会とスウェーデン社会の大きな違いだ。

また、福田さんがグレタさんについて聞いたこと。

「グレタさんだけが声を上げている若者じゃない。この問題に声を上げる若者はたくさんいるし、マララ・ユスフザイさんのように、様々な問題に声を上げてきた若者は世界中に大勢いる。それに、スウェーデンでも彼女に対して学校に行くべきとか批判的なことを言う人はたくさんいる。大事なのは、勇気があるかどうか。勇気よ、勇気」

これが、若者とは言い難いスウェーデンの助産師さんの答えだから、スウェーデンでは若者を評価する機運があると言える。

日本でも若者が声を上げ始めているのは福田さんの活動とその広がりを見ればわかる。しかし、マスコミがどれだけ伝えたか。大人がどれだけ共感を持って評価しているかと考えると、まだまだ認識の違いは大きい。

今回の9/20~27の気候マーチウィークでは、なんと世界185カ国で、760万人以上がマーチに参加した。それは確実に、個人の力が集まった結晶だ。

その声が届くかどうかというと心細い、などという評論家的な言説はここではいらない。環境問題は、政府に任せる問題ではなく、自らの認識を改める問題だから。

この中でも書いたけれど、政治的な決定が必要な問題ではあるけど、政治家が推進していくよう要求することが必要なのではないと考えている。あくまで政治家の役割は、経済人と科学者がエビデンスをもとに協力して解決策を導き出し、それを受けて法律で規制し、国の方向性を決めていくことではないか。

今は、エビデンスよりも肌感覚と票になるかどうかで政治家が規制や方針を打ち出すから定まらないのだ。

地球温暖化が問題なのは、人間に未来がなくなるから〜〜なことを。

チコちゃんに叱られないように、グレタさんに怒られないように、大人が考えを改めること、つまりシステムを変える、認識を変えることが重要なのだと思う。

福田さんは問う。今日何をするのか、だと。

マーチに参加しなくても、日々の小さな変化だっていい、「通勤にいつも通り車ではなく電車を選択してみるのか」とか、「今日もペットボトルを買うのかそれともマイボトルを使うのか」そういう些細な行動そのものも「個人の力」だ。

そして、自分の頭で考えて行動することで、誰かが変えてくれる未来ではなく、私たちの未来を作るシステムに変えることができるのだと。

昨日と異なることをするには、少しの勇気は必要かもしれない。でもそろそろ、一歩を踏み出して、ひとりの声なんて、行動なんて、意味がない、仕方がないと思わされてきた日々を塗り替えてみるのはどうだろう。あなたには、力がある。その力に気づくか気づかないか、その力をより良い明日のために使うのか、それともドブに捨てるのか。そのすべては、あなたが日々の下す、小さな選択の蓄積にかかっているのだから。

そこにあるのは運動ではなく、行動なのだ。

どうしても政治的な発言、つまり大きな問題に対する考え方の表明をする人を、運動家とか活動家、と言う言葉を使って日本では疎む傾向がある。社会運動が労働組合と結びつくイメージが保たれてきたから、何か言うと左翼的とか思う大人も多い。

でも、そうやって首を縮こめてぬるま湯に浸かっているのが、茹でガエル状態と言うのでしょう。

運動家は私も好きではないが、行動を起こさないといけないとは感じる。

特に地球環境問題と言うと大きな話に聞こえるが、日常的には、節約行動につながっているから実践しやすいと思う。

選ぶときには難しい方を選ぶ。

と言うとかっこよく聞こえるじゃないですか。

そんなに難しいことではなくても、楽に流れないように意識すると生活が整うし、地球も整う。

そう言うレベルの行動が小さな選択の積み重ねなのではないでしょうか。

私は、そんな風に、この記事を読みました。


サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。