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『ILLUME』とはなんだったのか:第12回:執筆者の傾向

本誌は科学ジャーナリズムの振興に貢献したいという意義を持っていましたが、それは実現できたのでしょうか

そうした中で、科学ライターの執筆の場として、本誌があることは、少しは振興につながっただろうと思います。

インタビュワーの場合

サイエンスシリーズでは、最先端の研究者に書いていただくことを前提にしていましたので、当然、科学者・研究者が執筆し、そのために専任の編集担当をつけていたことはすでに書きました。

インタビューは、インタビューイー(インタビューされる人)は、ノーベル賞級の科学者・研究者を中心に、一流の賢者揃いです。そういう人にインタビューするには、聞き手(インタビュワー)も一流でなくては成り立ちません。

そこで、インタビューイーが決まった後で、誰をインタビュワーにするかには毎回悩みの種でした。

創刊号では、江崎先生に対して片山修さんという一流のジャーナリストを起用したことはすでに書きました。片山さんには17号で山崎正和先生のインタビューの時にもインタビュワーをお願いしています。

第2号、第3号、第4号と3回続けてインタビュワーを務めていただいたのが、当時入社10年ほどの若手記者だった朝日新聞の高橋真理子さんでした。

朝日新聞 科学コーディネーター。1979年朝日新聞入社、「科学朝日」編集部員や論説委員(科学技術、医療担当)、科学部次長、科学エディター(部長)などを務める。著書に『重力波 発見!』『最新 子宮頸がん予防――ワクチンと検診の正しい受け方』、共著書に『村山さん、宇宙はどこまでわかったんですか?』『独創技術たちの苦闘』『生かされなかった教訓-巨大地震が原発を襲った』など、訳書に『ノーベル賞を獲った男』(共訳)、『量子力学の基本原理 なぜ常識と相容れないのか』。

最近は、ウェブ論座で鋭い時評を書いておられる高橋さんですが、当時(30年前)は科学部の記者でした。その頃、朝日新聞には、『科学朝日』という名門科学誌(1941年創刊)があって、朝日新聞の科学部記者は、新聞と科学朝日という活躍の場所があったわけです(新聞局と雑誌局などの違いはあるかもしれませんが)が、その両方で活躍された科学記者が高橋さんです。

現在は、科学技術ジャーナリスト会議の副会長として、科学ジャーナリズムの振興にも携わっておられます。

その朝日新聞記者の高橋さんにインタビュワーをお願いすることになったのは、東大での恩師になる編集顧問の小林俊一先生のご推薦と伺っています。

その後も、20号で江崎玲於奈先生、23号で村上陽一郎先生、32号で小柴昌俊先生と高橋さんにはことあるごとにインタビュワーをお願いしています。

また、高橋さんのご推挙もあって、朝日新聞科学部記者の、辻篤子さん(14号有馬朗人先生、26号白川英樹先生、30号野依良治先生)や瀬川茂子さん(18号小平桂一先生)にもインタビュワーをお願いしました。

他にも、当時論説副主幹の北畠清泰さん(10号安藤忠雄先生、12号下河辺淳先生)、大阪本社科学部副部長の斎藤清明さん(15号吉良龍夫先生)、など、朝日新聞社の方に多くのインタビュワーをお願いしています。

また毎日新聞社論説委員の横山裕道さん(21号有馬朗人先生)にもお願いしました。スケジュールが合わずに頼めなかった方も含めて科学部記者の方にインタビュワーをお願いした機会は多かったと思います。

新聞記者の安定感

何故、新聞記者が多かったのか。

その1番の理由は、安定感です。新聞記者はインタビュー取材に慣れているので大事なインタビューイーの気分を損ねたり、的外れの質問をする心配がない。事前に編集部と打ち合わせはしますが、当日の質問構成はインタビュワーが考えます。しかも、インタビューは生き物なので、当日のインタビューイーの答えによって、思わぬ方向に流れていくこともあります。編集部もインタビューの場に同席し、あまりにテーマと違う流れになる時は、横から質問を差し入れたりしますが、原稿のまとめも含めて、新聞記者には安定感があります。

ただ、新聞記者は、事前に自分なりの答えを用意して、その予定原稿通りの言葉を引き出そうとする「クセ」があります。悪くすると誘導尋問になってしまう取材のやり方を持っている場合が多いです。

しかし、イリュームは50枚という長さなので、事前の答えに当てはめるという記事の書き方では、追いつかないのです。記者が普段書いている5枚や10枚程度の分量ならば事前にストーリーを用意して、答えを当てはめることで成立するでしょうが、50枚を満たそうと思えば、十分に相手の言葉を引き出さなければなりません。表面的な回答ではなく心からの言葉を。

また、インタビューのまとめ方として、イリュームではなるべくQ&Aタイプでお願いしています。インタビュワーによっては、記事形式(インタビュワーの印象や周辺情報を交えた地の分がメインで、話し言葉としてインタビューイーの回答が入る)や、一人称形式(インタビューイーの一人称でまとめる)で書く方が得意な方もいらっしゃいますが、編集部からのお願いとして、質問とそれに対する答えで組み立てていただく、質問者の印象などを廃する方向でまとめていただきました。

まとめ方を指定して、対応できる技術という点でも新聞記者は安定感があります。フリーの科学ライターだと自分の得意なやり方しかできない方もいて、また、こちらからの方向性の指定への反発や、インタビューイーとの意見の違いを抑えられない方もいたりして、実は、何度か掲載をお断りしたり、編集部でまとめ直したりした例があります(どれとは言えませんが)。

ただ、50枚という長さが未知の長さである場合もあります。新聞ではそこまで長い記事はないですから。でも、インタビュー連載や、本の執筆に至るような特集記事を経験したことがあれば、長さは克服できます。その点でも執筆力という観点から新聞記者には安定感がありました。

科学コラムの書き手として

また、9号からは5項目のコラムを設け、執筆者にもバリエーションを出していきました。

主に編集部で執筆したTOPICS、科学者のつぶやきと題したSCIENTIST、建築や工業デザイン、さらに茶の湯に題材を見出したDESIGN、写真家や美術評論家の目から書いたART、手塚治虫に注目したCREATION、新聞記者にテーマを決めて書いていただいたVIEWPOINTなどがありました。

お一人に4回連載をお願いし、人とテーマを変えながら21号まで12回(20号は特集号で構成が異なりました)にわたって掲載しました。これには、一人2ページで大体400字詰10枚(実際には一行の文字数と行数でお願いしていたように覚えています)でお願いしていました。

これも毎号、TEPCO側からも編集人からも結構な赤字が入るので、調整に苦労しました。コラムって、あまり修正しないものですよね。その人の名前で書いているわけですから。でも、辻褄が合わなかったり、事実関係の裏が取れているかどうかの確認があやふやだったりするものは、掲載するわけにいかないので、TEPCOの担当者も編集部側もしっかり見るわけです。

でも、どう修正してもらうか。そこの言い方とか指摘の仕方は相手によって変えないとこじれるので、苦労するところでした。毎回、勝負って感じでした。

でも、ここで苦労したおかげで、他の仕事でのコラムは楽だったとか、そのあと書く仕事が増えたというお話をいただくと、やってよかったなと思うのでした。

このコラムでも新聞記者には活躍していただきました。

「地球環境問題の内部経済化」と題して科学技術の側面からではなく経済との関係から地球環境問題を書いていただいた日本経済新聞の島谷志郎さん、「科学技術と精神文化」と題して精神的側面から科学技術が抱える問題を指摘した朝日新聞の北畠清泰さん、「科学とジャーナリズム」というストレートな題で科学記者の第一人者としてその歴史を振り返ってくださった朝日カルチャーセンター社長の柴田鉄治さん。

素晴らしい原稿をいただきましたが、みなさんお亡くなりになりました。

21世紀に科学コラムの書き手を生み出すメディアにはなれなかったのがイリュームの悔いかもしれません。

書き手を選ぶメディア

初期には割と冒険もできたので、まだ無名時代の高橋真理子さんをインタビュワーに抜擢することもできました。また、処女作を発表したばかりの布施英利さんに第6号でフロンティアレポートを、第8号で恩師である養老孟司先生へのインタビュワーを務めていただいたのも、良い思い出です。

しかし、お褒めをいただくたびに徐々に失敗できない雰囲気もあり、また、TEPCOという硬いクライアントのもとで作るものなので、入念なチェックと裏取りが必要でもあり、そういう点ではイリュームは書き手を選ぶメディアになっていったのかもしれません。

錚々たる執筆者に恵まれ、多くのノーベル賞受賞に登場いただき、一部ではメディアとしての名声も高まったでしょうが、その分、冒険はしにくくなっていきました。

それでも編集顧問を筆頭に目利きが推薦する「これは」という若手研究者、若手執筆者の発掘を目指しましたが、なかなかに難しいものでした。

その中でも、後期に、これはという若手を発掘したと言えるのは、32号のフロンティアレポートでの横山広美さんでしょうか。

当時博士課程の大学院生で、「子供の科学」などに執筆していた横山さんにご専門の「ニュートリの研究」の最先端について書いていただいたのでした。この時は、国際会議でニューヨークに赴いたところに校正をファックスしたり、博士論文の執筆と重なるなどハードスケジュールの中でご執筆いただいたのですが、K2K実験の共同研究者である彼女にしか書けない臨場感のあるリポートになったと感謝しています。

彼女が歴代最年少の執筆者ではないかと思います。

結局、本誌が科学ジャーナリストの振興に役立つメディアになったかどうかは、正直なところわかりません。ただ、何人かの執筆者に大きな影響を与える場になったことは間違い無いかと思います。










サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。