藤原侑貴

一九八九年、東京都生れ。小説「通りゃんせ」(第三〇回織田作之助青春賞)、「帰郷」(第三…

藤原侑貴

一九八九年、東京都生れ。小説「通りゃんせ」(第三〇回織田作之助青春賞)、「帰郷」(第三二回日大文芸賞佳作)、「ビザラン挽歌」(『対抗言論』二号、法政大学出版局)、「祭りの後」(『対抗言論』三号)ほか。連絡先▶︎fujiwara.yuuki@gmail.com

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プロフィール・執筆物一覧

プロフィール 藤原侑貴(ふじわらゆうき) 一九八九年、東京都生れ。日本大学芸術学部文芸学科卒業、法政大学大学院人文科学研究科日本文学専攻修士課程修了。 執筆物一覧 ※原稿料などの対価が発生した執筆物のみを掲載しています。 小説 「通りゃんせ」(三〇枚、第三〇回織田作之助賞青春賞、二〇一四年) 「帰郷」(四六枚、第三二回日大文芸賞佳作、二〇一六年) 「ビザラン挽歌」(一二一枚、『対抗言論』二号、法政大学出版局、二〇二一年) 「祭りの後」(一三八枚、『対抗言論』三号、法政

    • 逆さの旗(三・完)

       昼頃にはプノンペン市街に戻った。暑さのせいもあって頭がぼんやりしていた。とにかくどこかに腰を落ち着けたくて僕はスマートフォンで適当に調べたラーメン屋に向かった。  指差し注文で出てきたのは日本式ではないラーメンだった。店の名前もずばり「中國拉麺」、チャイニーズヌードルレストランだ。何の気なしに訪れたわりには当たりを引いたようで料理はシンプルかつ美味しく、華僑の主人の対応も気持ちのいいものだった。何より安価に食事できるのは助かる。暑さの中、熱い麺料理を頬張るのも中々オツなもの

      • 逆さの旗(二)

         通されたのは狭い個室だった。壁掛けのテレビはあるものの窓がなくスーツケースを広げるスペースもない。  ドレッサーにセキュリティボックスが置かれていた。これがあるとないとでは安心感が違う。が、英語で書かれた手引書を読んでもうまく操作できなかった。どうやら故障しているようだ。レセプションに行き、受付の女にその旨を伝えると拙い英語がおかしかったのかそばにいたボーイが馬鹿にするように笑った。女はデスクの上にあるパソコンをいじりながら平然とした口調で答えた。 「上の階の部屋のと交換し

        • 逆さの旗(一)

           一九七五年四月、南ベトナム共和国の首都サイゴンが陥落する二週間前、隣国カンボジアの首都プノンペンが陥落した。  もっとも陥落というのはあくまでも一方向から見て使う言葉だ。ある人にとってそれは「解放」であったり「統一」であったりする。  カンボジアでは、新米のロン・ノル政権と北ベトナムおよび中国に支援された共産主義勢力クメール・ルージュの内戦が続いていた。民衆は戦争にも政治の腐敗にも飽き飽きしていた。一部の限られた人は別として、ごく一般的な国民はこの悲惨な戦争が終わるのなら共

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          違い

           インスタントコーヒーのCMで遠藤周作の名前を初めて知った。唐沢寿明も出演しているネスカフェのコマーシャルだった。キャッチコピーは「違いがわかる男」。故人の遠藤と共演しているように見せるため、合成技術を映像に用いていた。画面の中で二人は犬を撫でたり話し合ったり大量の本を運んでいたりした。  唐沢寿明主演のドラマ版『白い巨塔』が放送された二〇〇三年、僕は中学三年生だった。『白い巨塔』にもネスカフェのコマーシャルにも強烈な印象が残っている。だからどちらも同時期に放送されたものだと

          客死と戦死

           僕は腹が弱い。すぐに腹を下す。アジアを旅する身には重大な欠陥だ。水を警戒するのは当然として、ジュースに入った氷も生野菜も屋台の飯も、すべてに気を配らなければならなくなる。最大限に気をつけるとなると口にすることができるのは瓶ビールか、ファストフード店のハンバーガーぐらいだ。  それで面白いわけがない。水道水は決して飲まないが、暑さのせいでジュースの氷は気にしなくなる。いつもの癖で、シャワーを浴びるときに軽く口をゆすぎたくなる。焼き飯に生野菜が添えられていれば、やはり食べてしま

          客死と戦死

          旅人の笑顔

           二〇一七年一月某日深夜、離陸したタイ国際航空の飛行機の中で、僕は縮こまっていた。  バンコク・スワンナプーム空港行きの飛行機は満席で、機内右側の中央の席しか空いていなかった。窓側のタイ人らしき女性は疲れているのか微動だにせず眠っており、通路側の日本人男性はいびきをかき、機体の揺れとともに時折大きく咳き込む。前の席の若いカップルは仲良く一緒のイヤホンで座席モニターの映画を観ていた。  一方、こちらの席に備え付けられたイヤホンジャックは壊れているらしく、目の前の画面に映っている

          旅人の笑顔

          「虚構の旅」

           いつだったか、二日酔いの頭を抱え、だらしなく寝そべりながらテレビを眺めていると、香港の風景が映し出された。観ると、テレビ東京の『未来世紀ジパング』という番組の再放送だった。  香港が中国に返還されて約二〇年。家賃の話から始まったその番組を観ていて、香港に行ったときにガイドの男が口にした言葉がふと頭に浮かんだ。 「日本と同じです。物価が上がって、生活は苦しい」  二〇一七年一月にタイへ行き、海外旅行の魅力にすっかり取り憑かれて、翌月香港に行ったときのことだ。  神妙に話を聞い

          「虚構の旅」

          醤油中毒者の弁

           大学生の頃、小説家の先生のゼミに入っていた。ゼミの内容は世間話が五割、先生の愚痴が四割、残りの一割が小説の話だった。その一割も小説を書いていく上での精神論が大半で、小説を書く際の技術的な話はほんのわずかだった。  もちろん、小説作法は本来自由なものである。何をどう書こうが、あるいは書くまいが、何ら強制はできない。  音読しろ、主語を削れ、接続詞も削れ、オノマトペと記号に頼るな、「ような」「ように」と書くな、句読点は気にするな、自慢話は書くな、目を覚ましたところから書き始める

          醤油中毒者の弁

          「ふるさと」について

          *  故郷はどこか、と問われると戸惑う。生まれてからずっと同じ場所に住んでいるか、進学や就職で上京したなら答えるのもたやすい質問だろう。けれど引っ越しを、それもあちこちに数回していると、自分の身の置きどころがどこにあるかわからなくなる。  生まれた場所を仮に故郷とするなら僕の場合は東京だ。しかし、最初に住んだ家に行ってみたところでそこに懐かしさはない。記憶もほとんどなく、玄関のスチール製の扉が妙に安っぽい出来で、青いペンキで塗られていたことぐらいしか思い出せない。  成人す

          「ふるさと」について