絨毯おじさん

 彼は大学で物理学を修めたが、就職したのは出版社だった。
 異動はいろいろあったものの、編集者として実績を積んできた。
 それが表の顔。
 家庭がプライベートな顔だとしたら、裏の顔はガレージの中にあった。
 バイクが趣味ということになっていたが、じつは違う。
 彼は幼い頃から魔法の絨毯にとりつかれていた。なんとか自分の手で作ってみたいものだと思っていた。そのため、理系の大学にも進学した。しかし、いうまでもなく、魔法の絨毯の作り方を教えてくれるような先生はいない。
 彼は会社から帰ると父親の顔になり、深夜、ガレージにこもってひとり、科学雑誌を読む。インターネットで素材を取り寄せてみたり、図面を描いたり、実験をすることもある。
 科学の進歩は、彼にとってはそのまま希望といってよかった。
 エネルギーに関しては、ほぼ目処がついた。太陽光を変換すればいい。
 問題は浮力だった。ゆっくり上昇し、進む力。ある日、反重力物質が発見されたというニュースに彼は思わず歓声をあげた。
 魔法の絨毯が完成したのは三年後だった。
 誰に話そうかと迷った。妻には頭ごなしに否定されそうだった。目の前で浮かんでみせても、叩き落とされそうだ。子供たちを乗せてやろうか。熟慮の末、それもやめた。夢は自分で見つけなければならない。
 雑誌の校了を終えたある夜、彼はガレージの扉を開け、未明の空に向けて飛び立っていった。
 それきりだ。
 風船おじさんのようにどこかで墜落してしまったのか、別の時間軸に入ってしまったのか、もはや別の顔を演じることができなくなってしまったのかわからないけれども、他人からみれば単なる蒸発である。
 数年後、彼の妻は夫の失踪が認められて法外な保険金を受け取り驚いた。
 そして形ばかりの葬儀が行われ、初七日のあとお墓への納骨が行われた。
 彼はその様子を上空から見守り、ふふっと笑った。自分はここにいるのにあのお骨はなんなのだろう。たぶん、こういうイレギュラーな事態にも葬儀屋はきちんと対応マニュアルを作っているのだ。それを思うとおかしくてならなかった。
 儀式が終わるのを見届け、彼と絨毯は魔法のように姿を消した。今度こそ、ほんとうに。あとかたもなく。

(了)

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