その表情は

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 都立康夫の安らかな眠りは妻の絶叫で遮断された。
「あ、な、たー」
 妻は憤怒の表情だ。
 しかし、妻の憤怒は日常の表情なので、康夫はあまり気にしない。
「あなたあ、パンデミックってなによお」
「感染爆発。いまごろ、なにいってんだよ」
「あなた、あたしが新聞読まないのも、ニュース見ないのも知っているでしょう」
「うん」
「それなのにどうして隠していたのよお」
「べつに隠してないだろ。まだ爆発してないし」
「なにが爆発するのよ。危ないじゃないの」
「全部説明するのか? ぐぐれよ」
「ぐぐるってなによ」
「ぐぐるも知らないのか。あのなあ、H5N1型鳥インフルエンザっていうのがあって、鳥の病気なんだけど、これが人に感染したら、ものすごい勢いで広がる可能性があるんだ」
「なんだ、鳥の病気なの」
「あ、おまえ、鳥だからって鳥インフルエンザまでバカにしただろ。ほかの動物から感染した伝染病って怖いんだぞ。なにしろ人間の体の中にはそんなウイルスに対する抗体はないからな。罹ったら死んじゃう」
「ワクチンワクチンワクチン。あなたなんかどうでもいいから、あたしと息子の分のワクチン」
「チンチン騒ぐな。ワクチン、まだないから」
「ウソよ。ほんとはあるのよ。あなたはもう打ったから平気な顔をしているんだわ」
「ワクチンはあるらしいけど、ほんとに効くワクチンはまだない」
「どういうことよ。あたしが韓流ドラマばかり見てるからってバカにしてるでしょ」
「バカにしてるけど、ワクチンはない。あのな、鳥から作ったワクチンはあるけど、効くかどうかはその時になってみないとわからない。確実に効くやつは、患者が出てから作らなきゃいけなくて、量産するのに一年はかかるって日本政府は言っている。一年もかかったらもう流行は終わってるよ。アメリカは四ヶ月で量産するって言ってるけど、それでも遅すぎるんじゃないかな」
「あたし、アメリカに行きます」
「行くのはいいけど、おまえ、英語できるの?」
「韓国に行きます」
「よけいまずいと思うけど」
「どこに行けばいいのよっ」
「パンデミックは世界的流行だから、逃げようがないの。ワクチンもないの。黙って死ね」
「わあああ」
「わあああ」
 息子まで一緒になって泣き出した。
「おい、どうした」
「ぼくも死んじゃうんでしょ」
「それはわからないよ。生き残る人だっているんだから」
「死ぬかもしれないなら、もう我慢するのはやだ」
「なにか我慢してるのか」
「塾行かない」
「うん」
「学校も行かない」
「うん」
「ニンジンも食べない」
「それはどうかな」
「ママのいうことも聞かない」
「そうしろそうしろ」
「いいの?」
「いいぞ。なにしろパパ、リストラされちゃったから、もう来月からお仕事がないんだ。お金がないから塾は行けなくなるし、ニンジンだって買えないかもしれない」
「なんですってえ」
「あ、まだ言ってなかったっけ」
「きーっ」
 妻はぶっ倒れた。
「ママ、パンデミック」
「これはただのヒステリーだから大丈夫。静かになったなあ」
「パパ、これからどうするの」
「うん。鳥インフルエンザも心配だけど、世界中に不況が大流行していて、病気の前に貧乏でみんな死んじゃうかもしれないんだ。お金を稼ぐのはムリだから、遠い遠い田舎へいって、畑を耕そうと思うんだ。おまえも一緒に来ないか?」
「うん。行く。ママはどうするの」
「このままほっておこう。あのな、インフルエンザが流行っても、家の中でじっとしていれば感染する確率は低いんだ。お母さんは家の中でずっと韓流ドラマを見てるだろ。だから、きっと大丈夫だよ」

 親子、手をつないで退場。
 ひとり、女性だけが床に倒れている。
 その表情は憤怒。

(了)

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