急げ河馬丸

 河馬に名前はない。
 ここではとりあえず河馬丸と呼んでおきたい。かおりが昔、そう呼んでいたからだ。
 話を急ぐ必要がある。河馬丸の小さな脳に、かおりの叫び声が響いたのだ。それは時間も空間も無視した、魂の悲鳴と呼ぶべきものだった。残念ながらかおりと河馬丸に関する詳しい生い立ちを話している余裕はなさそうだ。
「きゃーっ。助けて河馬丸」
 かおりに助けられて動物園から逃げ出した河馬丸は、川を遡上し、人知られずひっそりと暮らしていたのだが、いまや猛然と川の中央に躍り込み、下流を目指した。
 かおりの家は都心にある。悲鳴もそこから聞こえた。
 かおりの身にいったいなにが起きたのであろうか。
 目黒川から突然体長三メートルの河馬が飛び出し、猛然と走り出した。体重は一トンを超えるが、足も意外なほど早い。時速四十キロメートルに達する。人はもちろん、自転車もはねとばし、車は踏みつぶし、河馬丸はひたすら善福寺を目指して走った。それなら善福寺川からあらわれればよさそうなものだが、なにしろ、河馬丸も錯乱しているのでそれらしき方向にひたすら突進するのみである。
 その頃、かおりは、裸身にバスタオルを羽織って、ばすばすと父親をけっ飛ばしていた。なんと、かおりがシャワーを浴びているところへのんきに一風呂浴びにきた無神経なやつである。
 そこへすごい勢いで河馬丸が乱入し、裸で血を流している父親の頭をがぶり。
「まあ、河馬丸。ひっさしぶりじゃなーい」
「ふがふが」
 父親の頭が邪魔でうまく鳴けない河馬丸であった。

(了)

お気に召しましたら、スキ、投げ銭をよろしくお願いします。

ここから先は

78字

¥ 100

新作旧作まとめて、毎日1編ずつ「朗読用ショートショート」マガジンに追加しています。朗読に使いたい方、どうぞよろしくお願いします。