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⑥『ベルリンは晴れているか』取材写真 最終回

ようやくここまできた…気軽に「せっかくだから取材したときの写真まとめとこっと」とやりはじめたら長くなってしまった…なんだかんだで1回あげるのに二時間くらいかけてるし何をやっているんでしょう私は。それもついに最終回と相成りました。

さて滞在四日目の後半はバーベルスベルクです。

地図から外にはみ出している!
それもそのはずバーベルスベルクはベルリンではなくて隣のポツダム市にある町なのです。

その前にちょっとだけヴァンゼーに寄る。

ドイツ語さっぱりだけれどもあちこち行っているうちにEingang入口とAusgang出口はわかるようになった。

See、ゼーは湖。ヴァンゼーはヴァン湖の意味なんだけれども、『ベルリンは晴れているか』を書く時に、ヴァン湖というのとヴァンゼーという地区名をどう記述しようか迷って、結局ヴァン湖にゼーのルビをふりました。

なんかかっこよく撮れた線路。

さて。いよいよグリープニッツゼー駅へ。

こちらは湖側の出口で、駅全体が見える。ノイバーベルスベルクから、バーベルスベルク=ウーファシュタットと呼ばれた時代になる前も、銀幕のスターが降り立った場所。
こちらはグリープニッツ湖。

冬なので寒そうだけれど、夏場はさぞかし美しい湖畔なのでしょう。

作中だと四章に登場する場所です。
ベルリン取材は2018年1月上旬で、すでに原稿の第1稿は書き上がっている状態、取材を経て改稿しました。現地に行ってはじめてわかることもたくさんある中でも、グリープニッツ界隈は特に描写を変えることになりました。

さて駅にいったん戻って構内を歩き、今度は反対方向の出口へ出ます。

出口を出てすぐのところ。こちらは左手を写した写真。右手には赤煉瓦の建物と駐輪場が見える。

この道をずずいっと進みます。

途中でポツダム大学が見えてくる。

このポツダム大学(分館)、写真資料にも掲載されていたものの、当時は大学ではなかった&この建物自体が現在大学本館ではないので、戦前戦中はいったい何の建物だったのか調べるのがけっこう大変で楽しかった。
実際のところはドイツ赤十字の建物だった。第三帝国の時代も赤十字で、赤軍の侵攻後ソ連管理区域になってからしばらくは病院として使われていた。

さて映画撮影所へ向かってれっつごう

はるばる来たよバーベルスベルク!!スタジオウーファ!!ウーファ撮影所!!

後になって、あっ、正門側じゃなかったと気づく。でも問題なく入れました。

ひゃーーーーーーーーーーーっ!!!大興奮!!!!!!

えーとこれは何かと言うと……まずなぜ私がバーベルスベルクにいるのかという問題なんですけども。小説で主人公たちがここを目指して歩くんですけど、つまり映画の撮影所なのですね。ウーファUfaというのは、戦前からドイツにあった映画会社のこと。皆川博子さんの『双頭のバビロン』にも登場します。

で、この建物が何かと言いますと、サイレント映画時代からあるもので、昔はこの左横にガラスハウスがついていました。
四方と天井をすべてガラスで作った巨大な温室のような施設なのですが、20世紀初頭の映画というのは、フィルムとカメラの性能が今よりもずっと悪く、大量の光源がないと真っ暗で何が写ってるのかわからないくらいだったのです。だけどそこまで照明も発達してないし、太陽の力を借りて撮影していて、だからできるだけ採光できるスタジオが必要だったというわけ。

しかしトーキーが遠く離れたハリウッドで誕生し、サイレントがどんどん廃れていく時代になって、ウーファは少し乗り遅れつつも、トーキーに移行していった。そうなると、今まで採光だけ考えて雑音についてはまったく考慮しなかったガラスハウスでの撮影が難しくなってくる。防音に優れたスタジオが必要になり、またライトの性能が上がり、ガラスハウスがいらなくなった。今はもう横にあった事務所棟(たぶん本社だったんじゃないかと思ってる)が取り残されているのみ……というわけです。

当時をしのぶことができる映像資料がこちら↓

https://collections.ushmm.org/search/catalog/irn1004480

やあやあ、当時の片割れに会えて嬉しいです。

そのまわりには、当時のまま残っている撮影所の建物があります。

ここも市街戦の激戦区となったのですが、ヒトラーやゲッベルスをはじめナチス党の高官に映画好きが多かったこともあって、国営化された後のウーファにはたくさんの資金が投入されたため、映画技術も高く、市街戦の後はソ連・アメリカ双方から戦利品のひとつとして目をつけられることに。

ソ連管理区域となり、東側の映画製作所Deutsche Film AG(DEFA)となりましたが、現在はまたUfaの名前を取り戻しつつ、スタジオ・バーベルスベルクに。撮影もたくさん行われているよ!!
映画学校が隣接されていて学生もたくさんいる。

昔からある守衛棟と出入り口はあっち。

どの建物が食堂だったのかがわからないのだけども、こんな感じの建物でスタアたちスタッフたちも過ごしていたんですね。
さて奥へ進むぞ。

はりぼてだ!!
たのしい

さてさて……もうすぐ大本命の、このためにバーベルスベルクに来たと言っても過言ではない建物に会えるはず。
マップをぐるぐるしながらああでもないこうでもないと相談しつつ不安にかられながら進むと……

あ、あった!!!!!

ひゃーーーーーーーーーーーーーーーーーー

きゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ

うわーーーーーーーーーーーーーん、きました、きましたよ!!!!!

トーンクロイツ。tonkreuzです。
はーーーーーーーーーかっこいい!!!!!!!!!!

トーキーに移行する時に前述のガラスハウスがダメになり、代わりに生まれたのがこちらのトーンクロイツ。防音撮影施設です。ここで音を録音したり撮影したりする。
四つのスタジオが十字架型に繋がって出来ているので、トーンクロイツ。

これは搬入口。サウンドサウスとあるので東西南北で分けてるんですな。

いつもお世話になっている酒寄先生から頂いた当時の建設図案によると、この小さい窓が並んでいるところがクロークだったもよう。

出入り口があっちこっちにある。
トーンクロイツから大スタジオまでの間にはプロダクションを行ってた建物もまだ現役だった。

敷地内にあったはずのフィルム工場はさすがになかったですね…

大スタジオ。

でけえ。でもこれでも横幅。

縦。現在の名称はマレーネ・ディートリヒ・ホールになっている。

でかいなーしかし

そしてこちらも初期から存在するスタジオ。

すごいなーかっこいいなー

広場に掲示されていた、これまで関わった主要な映画を紹介するパネル。

時代に翻弄されつつさまざまな映画を撮ってきたこの場所。
革新的な映画を撮りつつも、その後ナチスのプロパガンダ映画を作り憎しみを扇動した場所でもあり、体制が変わった後も検閲に悩まされ、壁が崩壊し自由になった今、様々な国の映画を制作している場所。

1926年の『メトロポリス』でミニチュアを撮影している下に、グリーンバックを使って撮影している写真が並び、その横には『グランド・ブダペスト・ホテル』のシーンもある。
なんとも感慨深いものがありました。

映画の舞台裏が大好きなのだけれど、虚構と現実の狭間にいる人々が、様々なものを背負ったり困惑したり悩んだり狂乱したり前向きになったりしつつ撮影所を行き来して、後に残るのはフィルムだけ、という様に惹かれるからかもしれない。

さよならバーベルスベルク。また来ます。

さて、ポツダムからベルリンへ戻ります。最後のベルリンでの夜です。

アレクサンダープラッツ。

このそばのデパートで買い物したときに、財布を落としてしまったんだけど、すぐ後ろを歩いていたお兄さんが拾って急いで追いかけてきてくれて、無事に戻ってきました。お兄さんありがとう。

ありがとうベルリン。乾杯乾杯!!!

ああーーーーーーーーーービールがめちゃくちゃうめえーーーーーーー!!

ガイドを請け負って下さった久保田さん、中村さん、お忙しいところ本当にありがとうございました。素晴らしい旅ができたのはお二方のおかげです。

翌朝、最後のホテル朝ごはん。またホットチョコレート飲んでる。

この後テーゲル空港に向かい、フィンエアーでヘルシンキを経由するんですけど、テーゲル空港のフィンエアーの係のおじさんがめっちゃ親切でした。その節は本当にありがとうございました…まじで…

私は経済的な理由で32歳になるまで一度も日本から出たことがなく、『戦場のコックたち』の売り上げが望外に良かったおかげで、生まれて初めて海外に出て、最初はイギリス、それからアメリカ、今度はドイツと取材して回ることができました。
その中でもベルリンは、なんというか、馬が合うといえばいいのか、今でも友達の家に遊びに行くような感覚で「ベルリン行きてえなあ」という気持ちになります。

ありがとうありがとうベルリン。
大好きさ。

それではこれで『ベルリンは晴れているか』取材写真まとめはおしまいです!続くとはいったけど全6回にもなるとは。
お付き合い下さりありがとうございました!

予告どおり、ご飯やら買い物やらをまとめた番外編もおいおい上げますので、その際はまたぜひ読んでやって下さい。

それでは!!!


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