砂の一粒

イヴァン・ジャブロンカ『歴史は現代文学である 社会科学のためのマニフェスト』(名古屋大学出版会)を読んでいる。

ジャブロンカの存在は、歴史に詳しいI先生や藤原辰史『歴史の屑拾い』などで知って、歴史とナラティブについて考えるのに役立つかなーと漠然と思っていた。

読んでみたら、とりあえずもう歴史と文芸/小説との関係性や「どうやったらこんな風に歴史を身近に感じさせる小説が書けるんですか?」という問いは全部これを読めばいいんじゃないかな、と思えるほどのものだった。というか読むのが遅すぎてまだ序盤なんだけど、まあそれでもいろいろなことが的確なのはわかる。

藤原先生は結構ジャブロンカへの疑念を書かれていたと思い、私は与したくないなと考えていたんだけど、読んでみるとめちゃくちゃ「知ってる」やつで戸惑っている。知ってる。よく知ってる。だって私たちはそうやって小説を書いているから。

引用
「第二に、私は、文学がいかなる点で現実を報告するのに適しているかを示したい。研究者がテクストにおいて証明を具体化できるのと同様に、作家は歴史や社会学や人類学の論理を実行することができる。文学はかならずしもフィクションの天下ではない。文学は社会科学の調査方法を適用し、時にはその先駆けとなる。世界を語ろうとする作家は、独自のやり方で研究者となるのだ。」(序文、2ページ)

そう、知っている。私たちがそうだから。

この本は歴史が「文学」にさらわれるのと並行して「科学的」になっていく課程も示している。かの有名なへロドトスからはじまり、ヘロドトスを誹謗する者たちの存在、ヘロドトスを「散文家」「話し好き」「作り話をする者」といって危険視する。聴衆を喜ばせるためなら真実を犠牲にすると糾弾する。
しかし「真実を述べる」ということを極限まで研ぎ澄ませると、日付と事実だけの羅列によるリストになってしまう。そもそも「歴史」は、古代において、君主・王の輝かしき経歴や戦歴をたたえるために機能していた部分があった。本当に「真に歴史を語る」とはどのような行為であれば許されるのか。客観的とは事実とは何か。伝えるには何が必要なのか。

引用
「問題が生じるのは、物語がパトスになり、書法が大言壮語になり、関心が不公平さになるときである。文学が多くなりすぎると、歴史は死ぬ。文学が少なすぎると、もはや何も残らない。」(24ページ)

さらに文学は作家と出会い小説となり、近世になっていくにつれ、文学が書く歴史は支配階級から「下」の階級へと目を向け、市井の人々を描くことによってより色彩が鮮やかで濃くなっていく。

引用
「それらが登場人物や感情や雰囲気によって過去をよみがえらせるからである。それはまた、それらがある行動を切り離し、ある問題を立てることで、読者に理解のための道具を与えるからである。問いを立て、事実を選択し、何かを物語り、理解させること――これらすべての「文学的」手段によって、歴史は少しずつ科学としての地位を獲得した。」(43ページ)

そしてその具体的な書き方も記される。ゾラは情報や資料を収集し、訪問を行い、人々に会い、雰囲気に浸る、長期にわたる準備をした。文献を大量に読んで資料にあたり取材を綿密に行い、あらゆる観察をした上で執筆する。

引用
「ゾラはこのような資料調査で武装し、できるかぎり科学的な実験を行った。彼は特殊な条件を持つ一定の環境の中に登場人物を置き、そこから彼らの行動を演繹し、最初の仮説の妥当性をテストした。人体と気質は環境の圧力のもとに変化する。そして小説はこの実験の調書なのである。「結局、人間についての知識、科学的知識があるのだ。」その意味で、作家は何も創作しない。彼は学者としての好奇心と真理への愛に駆り立てられ、症例を研究し、問題を解決する。小説はフィクションとしての性格を持ちながらも、認知的な目的を持つのだ。」(58ページ)

このあたりを読みながら、やられた、と思った。

小説家は結局、いろいろな出来事や人生の二番煎じしか書けない。想像力は何かが元になっている。柱があり、それにまとわりつく何かがあり、建築物ができるが、それは元をただせばどこかで見た聞いた知った何かなのである。

そして小説家と歴史家の格闘は古代から今日まで続き、巨大な川となり、私もまたその川底に沈む砂粒のひとつにすぎない。私が最初でもなければ最後でもない。メッセージは伝わらず、何も変わらないが、確実に何かは変化していく。思いもよらないところで。

そんなことを考えていたら、めちゃくちゃモチベーションが落ちてしまった。
なんのために小説を書くのか迷いまくってて、本当のことを言うと私は世界を変えたり人を変えたりしたいのだがそんなのはうまくいくわけでもなく、啓発したいのかと問われれば全然そうではないのだがそうではないかといわれるとそうだと言わざるを得ないことはやっていて、じゃあ歴史を書いたり人間を書いたりする小説には何の意味があるんだとか、私が書く必要があるんだろうかとか、まあそんなことを延々考え続けてしまう。

人に熱を与えたい、ということは思う。私の書いたもので誰かの想像力を刺激し、新しい創作物が生まれたらいい。私は触媒や着火剤になっていたい。

しかしそれとはまた別に、世界に伝えたいことはあるのだ。

砂粒のひとつにすぎないことを、誇りに思うか、むなしいと受け取るか、それは今後考え方が変わるかもしれず、ただ今は砂粒のひとつですということを淡々と理解していきたい。などと。



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