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③『ベルリンは晴れているか』取材写真

まだまだあるある取材写真。

前回はこちらとこちら

さて夜が明けて朝、滞在三日目の取材二日目、出発ですよ。ホテルの食堂で朝ご飯を食べながら外を見るとなんとも深い霧!!

また拙い英語でスタッフさんとお話しながら朝ご飯を食べたり(食べ物はまた後でまとめますけどちょっとだけ写真↓)伝言をお願いしたり。一人旅なので英語もっと勉強せねばな…という思いをますます強くするわたくし。
そしてこの日の取材は特に重いものになるので、ちゃんと食べていかねば。

このサーモンにかかってるマスタードソースがめちゃうまだった…あとチーズとパンが超おいしい。そして二日目のガイドを請け負って下さったライターの中村さんとホテルのロビーで合流、出発出発。

気温は例年ほど低くないけれど、じっとりと寒い。滞在先のローゼンターラー通りを進みます。前日の最後に訪れた、おしゃれなショッピングスポット、ハッケシャーマルクトのそばへ。
以下の↓地図だと水色の星印のあるところ。

ちなみにこの地図は1944年に実際に売られていたベルリンの地図で、赤い文字・線は電車と駅です。もっと広範囲の地図なんですけど、データがでかすぎるのでカットしてお送りしております。執筆中に最も使った資料でして、こちらはドイツ語文学者・翻訳者であられる酒寄進一先生のご厚意でいただきました。もうお世話になりっぱなしです。

さて、十分ほど歩いてハッケシャーマルクトへ…といっても、目的地はその裏手。

これぞベルリン…!壁アートがこれでもかと描かれております。

ここに何があるかというと、「オットー・ヴァイト盲人作業所博物館」。
『ベルリンは晴れているか』にもほんの少しだけ描くことができた、ユダヤ人の視覚・聴覚障碍者がドイツ国防軍のためのブラシを製造していた作業所が、実際にこの場所にありました。作中では、幕間でデートレフが助けを求める場所となっています。
当時、ナチスは建前上、ユダヤ人を〝役に立つ〟労働力とすることにしていました。「軍需ユダヤ人」と呼ばれ、ベンツとかでも働かされるなど、このあたりゲッツ・アリー著の本などでも詳しく読めるのでぜひぜひ。
働いても働いても賃金は色々な名目で取られ、ほぼ手元に残らず、荷物は没収され家も追われ、やがて街の一時待機所にまとめて収容されて、最終的に列車に乗せられて強制収容所、あるいは絶滅収容所へ送られていきます。
そんな中、自身も視覚障碍を持っていたユダヤ人オットー・ヴァイト氏は、同胞を集めてブラシ工場で働かせ、自分たちが役に立つことを当局に示すことにより、収容所送りをどうにか逃れようとしました。結局それも打ち切られてほとんどの作業員が亡くなります。奇跡的に逃げ延びて生存した女性に、ガイドを請け負って下さったライターの中村さんはインタビューされたことがあり、詳しくお話を伺うことができました。その前に訪問された時のことをこちら↓にまとめていらっしゃるのでぜひ。

迷い込んできた白鳩。

それにしてもベルリンの集合住宅の素晴らしさよ。いろいろ気持ちが滾ってあっちこっち写真撮ってるのでこれも後で別にまとめておきたいです。ちょっとだけ。地下室への階段。

通りに出ると、石畳に小さな碑があることを教わりました。

この建物に住んでいて、連れ去られたきり戻ってこなかった人々の名前が刻印されています。碑はベルリンのあちこちにあります。

ここからグローセ・ハンブルガー通りへ。

何度もご登場頂く地図。
このあたりはユダヤ人が多く住んでいた場所で、いわゆる「水晶の夜」事件が起きた場所です。シナゴーグがあり、ユダヤ人墓地や病院がある。

グローセ・ハンブルガー通り。左手にある頭一つ小さな建物は18世紀頃に建てられたものだとか。町の中に、様々な時代に建てられた建造物が混在している。

『ベルリンは晴れているか』ではこの通りで登場人物が〝移送〟を目撃します。右手奥に見える建物はユダヤ人男子用のギムナジウムで、今もそのとおりに使われていますが、ナチス政権下の時代は、ユダヤ人を集めておく一時収容所として使われていました。この手前がユダヤ人墓地です。

予期しなかったことではあるけど、この日が一日中霧で、一層色々と考えさせられました。「夜と霧」。

ユダヤ人墓地は、これまでも何度か行われてきたポグロムの影響で封鎖と解放を繰り返してきたとのこと。1943年にはゲシュタポに荒らされてお墓がなくなってしまう。その中でたったひとつ残されたのが、モーゼス・メンデルスゾーンの墓。作曲家メンデルスゾーンのお祖父さんのお墓だそうです。

荒らされた墓石は今はこうして立てかけられている。

Jüdisches Gymnasiumユダヤ人ギムナジウム。ここは男子校です。

ドイツ国内に残っていたユダヤ人たちの最終徴集が1943年2月末から3月で、この場所には合計5万5千人が一時収容されたとのこと。ここからはアウシュヴィッツか、テレージエンシュタットに送られることが多かったそうです。
今は、反ユダヤ主義者からの攻撃を避けるための鉄柵と監視カメラがある。

ゾフィーエン教会。日本語だと福音教会になっている。

その手前の建物がこちら。

うわーーーん(つらい)

戦争終結直前の市街戦の時にできたと思われる弾痕です…前日のジーゲスゾイレに続いて、こういうのが本当にたくさん残っている…

病院。赤煉瓦がむきだしの外壁は、古い工場や病院、学校に多いのだそう。

重いエピソード続きなので、このあたりで楽しい楽しい集合住宅とお店と中庭をば!!

まあ素敵!!!!!!!!!!!!!
それにしてもドイツのドア重い。体当たりするみたいにして開けることもしばしばだよ!!!!!

わーい、とか思うんだけどここにも弾丸の痕が……

地下室への道!

こちらは公園にあったモニュメント。団らんの時が突然破られ、強制移送される悲劇を表したもの。

こちらもぜひ見ておきたかった給水ポンプ。戦後はここにバケツやらたらいやらの容器を持った人が列を成して水を得ようとしました。

この長い棒状のハンドルをかしゃこんかしゃこんと上げ下げして水を汲み上げる。

突然の素敵ドア!素敵階段!!

さてさてここからがつがつと歩いて、北西に向かいます。

ぎゅいーん。
目的地は、主人公アウグステが父母と暮らしていた住居があった場所。
なのだけど、その手前にはこちらがあります。
そう、「ベルリンの壁」。

Gedenkstätte Berliner Mauer。1944年の地図だと墓地(聖エリザベス墓地)になっているんだけどこのへんの歴史がちょっとわからないので調べます。
アウグステやホルンたちが暮らしていたヴェディング地区は基本的にイギリス領になり、ここは東側・ソ連領域との境界線のひとつとなりました。

時々、「壁って案外薄いんですねー」とか言われるんですけども、いやいや、壁は厚みが問題じゃないんです、壁は西側と東側の二重になっていて、その間の緩衝地帯を抜けるのが最も困難なのです。監視塔があり、照明で煌々と照らされ、監視員がいて、番犬もわんさかいる。普通に撃たれる。

さっきの写真は西側の壁、こちらは東側の壁。実際に立ってみると緩衝地帯はめちゃくちゃ広い。

一枚目の壁を超えても、この間を走って、また壁を超えないといけない。
ベルリンの壁にまつわる映画で『トンネル』というのがありましたね。レンタルビデオで一度観たきりだけど今でも脳内再生できるくらいに印象深い。

そして、はいー!アッカー通り!!クラウス・コルドンの三部作を読んでる方もぜひ!アッカー通りですよ!!!ゲープハルト一家も住んでいた!!あの!!アッカー通り!!!

クラウス・コルドン著のベルリン三部作もお薦めなんです。『ベルリン1919』にはじまり、『ベルリン1933』『ベルリン1945』というタイトルで、時代に翻弄されるある一家の物語です。特に『ベルリン1945』にはかなり助けられました。『ベルリンは晴れているか』が気に入った方はぜひどうぞ。

そしてこちらで翻訳者の酒寄先生がアッカー通りめぐりをなさってるレポが読めるのでぜひ…!

ちなみにゲープハルト一家が暮らしていたアッカー通り37番地の住居は架空のものになっていますが、アウグステたちニッケル一家が暮らしていた集合住宅にはモデルがあります。マイヤーズホーフ、好事家には有名な集合住宅です。ドイツ語だとMeyerische Hofが正しいのかな。

https://de.wikipedia.org/wiki/Meyers_Hof

さて現場です。

わおーーー

こちらです。こちらがマイヤーズホーフがあった場所。空襲で焼けてしまっているので、現在はまったく新しい集合住宅が建ち並んでいます。

少し先へ行くと教会の尖塔が見える。

そしてヴェディング地区にあったAEGの建物跡の一部。AEGは巨大企業でたくさん工場を有していたのであちこちにあります。ここよりも南西にあるモアビット地区にはタービン工場の跡地もある。このへん、作中では現実フィクションとをかなりまぜこぜにしているので、映画のロケみたいに飛び飛びになってるものもあったり。

さてこれからフンボルトハイン公園に向かいます。ここに何があるかというと、地下壕と高射砲塔。

駅のタイルは相変わらずきれい。

ベルリン地下ツアー!
こちらでチケットを買って、いよいよ地下壕へ!
……なんですけど、地下壕が撮影禁止でして。

こちらではドイツ人のツアーガイドさんと共に20人くらいで見学をしました。夜光塗料に懐中電灯を当てていたずら書きをする遊びもここで実演されて、すごく面白かった。空襲に備えるための双六の実物だったり、地下壕の二段ベッドだったり、なんかこうつい遠い目をしてしまう感じの壁画を見たり、中村さんに通訳をして頂きながら色々勉強しました。とても充実していてよかった。戦後の後片付けもしっかり展示されてて、SSのヘルメットに穴をあけて水切りボウルにしたり、迫撃砲の筒に穴開けてパスタゆでる容器にしたりとか、瓦礫女たちがトロッコに乗せて運んだレールとか、脳裏に焼き付けておきました。

さて次は高射砲塔です。現物が残っています。
……なんですが、ちょっともうだいぶ長くなってしまったのでこちらはここまで。いったんここで止めて予告編とばかりに写真だけちらっと。

全力で続きます!
それでは!!!

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