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『ベルリンは晴れているか』の取材写真

です。

ベルリンに訪問したのは2018年1月の上旬でした。はじめてのベルリン。ひとりでフィンエアーに乗ってヘルシンキでトランジット、ベルリンへ。
現地でガイドをお願いしたベルリン在住のライターさんと合流し、取材中はずっとお世話になりっぱなしでした。お二方、その節は本当にありがとうございました。

せっかくなのでその時の記録を少しだけ書いて、公開しようと思い立ち。しかしこれがなかなかの情報量でして、本当にごくごく一部の切れ端になってしまうんですが、よかったら。ちなみに蘊蓄みたいなのもちょこっと書いてるんですけど、すごくかいつまんでますし、間違ってる/誤認している部分もあるかもなので、もう少し詳しく調べたい方はご自身でいろいろ当たってみて下さい。

一日目は夜に到着したので、本格的な取材は二日目から。

宿泊したのはベルリン・ミッテの東側、ローゼンターラー通りのそば。

ドイツの朝は早い。結構多くの人が朝7時くらいから働いてて、夕方早く帰っていく感じ。
ホテルで朝ご飯をもりもり食べて拙い英語でホテルの人と交流したりしつつガイドさんと待ち合わせ、出発。まずは東側から。

フォルクスビューネ。『ベルリンは晴れているか』の作中ではなにげによく出てきます。その名の通り、民衆(フォルクス)が演劇を観られるようにと19世紀に作られた劇場で、東ベルリンにおけるプロレタリアートの権利と革命前夜の象徴的な建物だなと思いました。この裏手には本当に書店があって、レジスタンスが活動拠点にしてたという話も。

1944年のベルリンのマップ↓ではこの青い○印のところにあたります。1933年までは、この広場はビューロウ広場と呼ばれていて、共産党本部がありましたが、ヒトラーとナチス党が主権を取ってからは共産党は活動を禁止、党員は逮捕・収容所送り・処刑となり、広場は赤色戦線の隊員に殺されたナチス突撃隊員ホルスト・ヴェッセルの名をとって改称されました(この時代、選挙活動中に各党の対立が激化して、あちこちで暴力沙汰や殺人事件が発生していました)。

当時の選挙は血が流れるだけでなく一大イベントだったようで、ブルンヒルデ・ポムゼルの『ゲッベルスと私』などを読むと、選挙中のお祭り騒ぎムードや奇妙な高揚感がよく伝わってきます。
ホルスト・ヴェッセルは「犠牲となった英雄」としてナチスのプロパガンダによく使われることになります。歌とか、学校の教科書とか。

1933年から1945年までは、あちこちの場所がナチス色の強い名称に変えられるのですが、戦後は改称され、この広場は現在、ドイツ共産党創始者の一人であり、第一次大戦後1919年に逮捕、フライコーアによって殺害されたローザ・ルクセンブルクの名前が冠されました。道には彼女の言葉が刻印されています。

……と、ここまででもわかるとおり、ベルリンという街を訪れた印象はとにかく、歴史がそのまま生々しく残って/残しているというところでした。この先もそういう場所にたくさん行きます。このあたりはウェブちくまの企画で日本在住ドイツ人のマライ・メントラインさんと話した時にも出た話題です。↓

フォルクスビューネのすぐそばにある映画館、バビロン。これも相当古い映画館だそうです。

広場。このがらんとした感じを、私はベルリン滞在中ずっと抱き続けてました。この空の広い感じ。がらんとした印象は、まだどうにも言葉に出来てない。

このあたりは東ベルリン、つまり戦後はソ連管理区域にあたり、市街戦で燃え落ちた建物は「プラッテンバウ」と呼ばれるプレハブ建築で立て直されたものが多いとのこと。

映画の『グッバイ、レーニン!』みたいだ!!

少し離れて、トーア通りあたり。この辺の電線、いかにもー!って感じでちょっと萌えました。トーア(Tor)、門、の意味があってむかーしむかし(といってもせいぜい18世紀前半)の城郭都市時代、ここが城壁でその名残の名称だとか。

ベルリンを走る路面電車、トラムの線路が見えます。

このペースでいくとものすごい量になりそうだぞnote。

そして突然の墓地。なにげにここがデートレフとマリアの出会いの場で「アウグステ」の名称の元となったりします。


扉とか排水溝とか石畳とか。こういうの大事。作中で使ってないけど…
排水溝の蓋はたぶん新しい。

あと私のお気に入りであるドイツのクレーン。20世紀初頭に撮影された記録映画や写真を観てもこの形のクレーンなのです。
これ↓は三日目の霧が出ていた日に高射砲塔から撮れた写真なんですけど、この雰囲気が最高に近未来SFみたいで好きです。

それから道を更に進みます。

このあたりは『ベルリンは晴れているか』では「幕間」によく登場する場所です。1944年ベルリンの地図ではこう。↓紫色の印をつけたあたりがアウグステたちニッケル一家が暮らしていた集合住宅のある場所。そして水色の場所はというと

ユダヤ人女学校があった場所。アウグスト通り。作中ではごくごくわずかにしか触れることが出来ずに残念でしたが、私としてはとても印象深く、また是が非でも訪れたかった場所です。
ガイドをして下さったライターの久保田さんが書かれたこちらもぜひ。

http://osanpoberlin.blog.fc2.com/blog-entry-146.html

1938年には生徒もわずかになり、本格的に閉鎖されたのは1942年。その後は病院や、東ベルリン時代には学校として再利用された建物。

今は、おしゃれな界隈だけあって素敵なレストランやカフェなどが入り、一般の人でも気軽に入ることができます。当時のことをしっかり記した書き物と写真が壁に展示されていて、記憶を風化させないようにしようという努力が伝わってきます。

息を飲むほど美しいタイル。佇んでいると、静謐という言葉が頭に浮かんでくる。

ここのユダヤ人女学校にいたほとんどの生徒と先生が強制収容所から帰らず亡くなったそうです。


続いて、こちらは↓小学校。アウグステが通った小学校はこんな感じかな、というイメージの元になりました。これも古い建物。

そして突然のカリーヴルスト。

有名なところで食べた。どこだっけ…
カレー粉にシトラスの香りがしてとてもおいしかった。思ってたのと全然ちがうソーセージ。びっくりだ。うまい。

それからガイドの久保田さんおすすめのBauen und Wohnen in Prenzlauer Berg um 1900へ。ここでは19世紀末から20世紀初頭の労働者の暮らしがわかる展示が観られます。博物館ガイドはボランティアの方です。すごく詳しい。


キッチン。右側の青いやかんの下にある鉄鍋みたいなものは、コーヒーミルつきの焙煎機で、当時労働者の賃金からすると結構な贅沢ものでした。幕間Ⅰでアウグステの父デートレフが「売ってくる」と言ったのはこれです。

寝室。ベルリンの特徴である集合住宅、ジードルング、アルトバウと呼ばれる建物はだいたい同じ構造をしています。ちなみにこの博物館があるのはプレンツラウアーベルクという地区で、空襲を免れているため、建物がそのまま残っています。

客間。面白いのは、集合住宅の中で「居間」とも言える場所であるのに、当時はここはあくまでも「客間」であり、お客がいない時は普段使いしないで、だいたいの団らんはキッチンで行われた、という点。

暖炉の写真を撮ったはずなんだけどどこにいっただろうか見つからない…

床板の構造。印象に残ってるのは、この床の色のペンキ。安価で長持ちするペンキで、色は「牛の血」という名前だったという。

『ベルリンは晴れているか』に登場する湿気取りのエピソードは、ここの見学ツアーで同席したドイツ人家族のおじいちゃんが話してくれたもので、博物館のガイドさんも「そうそう、そういうのがあったの」と補足してくれた。ご家族はとても親切で、「どこからきたの?ベルリンの歴史に興味あるんだって?」と嬉しそうに色々教えてくれました。

洗面場とトイレ

……この後もあちこち行くんだけども、これぞザ・ベルリンの中庭、ホーフ!という写真を挙げて、第一回はおしまい。

伝わりますか。私はこの空間が大好きなのです。

あー、最高。

いいでしょう、すごくいいでしょう。大好きです。ドアは重いです。
こちらは通路から棟の中へ入るドア。

ジードルング、アルトバウの魅力ってすごいですよねえ…いいものですよねえ本当に…

ということでいったんおしまい。

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