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④『ベルリンは晴れているか』取材写真

またまた続く『ベルリンは晴れているか』のベルリン取材写真。
3日目の後半写真です。

今回も重め。

これはいったいなんでしょう

これは高射砲塔といいまして、第二次世界大戦中、ベルリン市内にも数カ所にわたって建設された都市防空施設です。偵察にきたり爆弾を落としていったりする敵機を撃ち落とすことに加え、要塞内は市民用の待避壕として機能していました。

現在も残るこの高射砲塔は紫マル印のフンボルトハイン公園にあります。
他に、右下のフリードリヒスハイン公園、そしてティーアガルテンの西端にある、ベルリン動物園(ツォー)にもありました。
高射砲塔の様式はいくつかあって、これは第一世代と呼ばれてるもの。
分厚いコンクリート壁に、一辺が70.5メートル、高さ39メートル、地上五階建てに地下壕という立方体の要塞に、円筒様の塔が四隅に立ち、屋上に高射砲(5階に重砲、4階に軽・中砲)が設置されていました。高射砲の数は12基から多いときで20基だったそう。(このへんがあまりよくわかってないところにミリタリ詳しくない度が窺える……)

私はむしろ要塞内にある待避壕の方に関心があるのですけれども、食料貯蔵庫と病院、ベッド、トイレなどがあるものの、最後の方は満員になって大変だった。混乱で押し潰されて死ぬ人もいる。酸欠もあり得る。地下壕含めて待避壕の壁には蝋燭があって、それは明かりのためではなく、火の大きさで酸素の濃度を調べるためのものだったとか。
戦争終結直後は市街戦の負傷者のための野戦病院として機能していたんだけども、特にその役割を多く果たしていたツォーの高射砲塔・待避壕は早い段階で解体(つうか爆破)されたり。でも堅牢すぎてなかなか倒れず真っ二つに割れたまま、さてどうしようかとなったり。
ちなみにツォーの高射砲塔には「グスタフ」という渾名がついてたんですけれども、これと80cm列車砲のグスタフは別です。(ゲラ作業中に校閲さんから疑問を出されたことがあった)

屋上にあがってみるとこんな感じ。

いまは公園の土が下の方をかなりこんもりと覆っているのだけど、当時は大きな建造物だったんだろうなと思う。とても見晴らしがいい。対空砲だから当たり前だけども。

高射砲は弾幕を張ったり敵機を撃ち落としたり市街戦で侵攻してきた赤軍を撃ったりしたわけだけども、誤射や落ちてくる焼けた残骸などで火事が起きたり、市民の巻き添えもずいぶん多かったという証言がある。

……という高射砲塔でございました。
パシャパシャと写真を撮り、降りてふたたびベルリンのミッテへ。そろそろお腹がすいてきた…ところで、ガイドをして下さった中村さんおすすめのお店へ。

ヘブライ語がちょこっと見える。ここはユダヤ人カフェ。
店内が撮影厳禁なので外側だけ。窓ガラスにはダビデの星が飾ってある。
外では警察官が警備をしている。

写真がないのであれなのだけど、ファラフェルやにんにくのきいたフムスを食べ、ごまの浮かんだ甘い紅茶を飲みました。ネオナチを警戒して色々とルールがあるのだけれども、普通に挨拶してご飯を食べてれば何ごともなく、店員さんも優しくて、食事もとても美味しかった。ユダヤ人の老婦人がふたりほど働いてらっしゃる。

新シナゴーグの前も通る。水晶の夜で焼かれ、放置されていた後、戦後に立て直されたもの。

ネオナチによるテロへの警戒が強いのはどこのユダヤ系施設も同じで、新シナゴーグのすぐ目の前に交番があった。この街、この国においてあの出来事は過去ではなく続いているものだというのを痛感する。
一方で、イスラム系の施設には警備がついているのかというとそういうわけではないそうで、イスラム教徒が攻撃されないよう警戒する必要も、とか、色々と考えてしまう。それを言ったらキリスト教会もそうで、私が訪問した約一年前に起きた2016年のクリスマスマーケットへのテロもそうなんだけど。
前日にドイツの大学生から質問された「この世から争いごとをなくすにはどうすればいい?」がリフレインする。

そしてこれからヴィルヘルム通りへ。

ここは何かというと要するに官庁街です。ヒトラーの総統官邸や外務省、ゲーリングの航空省があり、秘密警察ゲシュタポ本部もあった。ゲッベルスの宣伝省はこの通りから東に入ったヴィルヘルム広場にある。

地図だと狭く見えるかもしれないけれども実際に歩くと広いし長い。

現在は旧東ベルリン時代のプラッテンバウが立ち並ぶ。
特に重要だったヴィルヘルム通りの北側は、戦後処理の際に先に侵攻したソ連が取った地区。総統官邸に最初に入ったのもソ連だったので、ヒトラーの自殺はソ連がいろいろやったんじゃないかみたいな陰謀論というかあれがいまだに燻っていたり。

ヴィルヘルム通り72番地、ライヒ食品農業庁があった説明。

ヴィルヘルム通り73番地、大統領府があった説明。

旧ヴィルヘルム広場跡の、ゲッベルスの宣伝省があったあたり。

総統官邸があったところは駐車場になっている。崇拝の場にしないために。

あらためて感じるけど、ドイツの「記録しないと」の文化ってすごいなと思う。ここにもあそこにも記録が残り、一般の人でもすぐに見られるようになっていて調べやすい。風化させないようにというのももちろんあるのだろうけど、戦後に検事長フリッツ・バウアーをはじめ戦犯告発に挑んだ人々が経てきた困難と尽力を考えたりすると、隠したいという本音を乗り越えてきた部分もあるだろうし、それ以前に恥を上回る「記録したい」欲があるのかもしれない。

この日はいったん晴れ間が覗いたもののやっぱり霧が多くて、夕方頃は濃霧になった。

空襲を免れて、そのまま立ち続けている旧航空省。

ばかでかい。

この建物だけで2800部屋もあるらしい。

ヒトラーが建築家の素質があっただけに第三帝国は巨大な建造物を建てまくろう計画(世界首都ゲルマニア構想)があったのだけど、この航空省はまさにその一環で建てられたもの。人の畏怖をかき立てるようなデザインを目の当たりにし、あの人たちがやりたかった支配とは、こういうことだったんだなと思う。「世界に冠たるドイツ」ってやつです。

心の中でばーかばーかと呟きながら前を通る。

ちなみに現在はドイツの連邦財務省として、現役で使われております。

ゲルマニア構想は頓挫したものがほとんどだけれど、航空省の他にもオリンピア・シュタディオンなど完成していまも残っているものもある。宣伝省も補修されて残っていて今は連邦労働社会省に。

それにしても霧が深い。

旧東ベルリン区内なので、こういうサービスもある。
旧東ベルリンといえばこの車、のトラバントのレンタル!

クレーンの作業音、ごおん、ごおんという音が鳴り響いている。

まるでSF映画。

さてここから「テロのトポグラフィー」へ。

東側地区の終わりを告げる壁。

現在はナチス恐怖政治についての記録や写真を展示する資料館となっているけれど、もともとは秘密警察、ゲシュタポの本部があったところ。ヴィルヘルム通りから西に折れ、プリンツ・アルブレヒト通りにある。

これは壁の名残。

本部があったのは左手、西側。

「テロのトポグラフィー」の膨大な量の資料を見ていく。
たくさんあるけれども撮影OKなのでとにかくカメラにおさめていった。

展示はほとんど英語が併記されているので、英語が読めれば大丈夫。

資料本も売ってる。英語版があるものは英語版を、ドイツ語版しかないものはがんばって辞書引いてということでドイツ語版も買う。
写真が多く掲載されているおかげで文字の資料だけで読んでいたものが具体的にわかってとてもよかった。

テロのトポグラフィーを後にして、ここで予定していた取材は終わり。
ホテルに戻るのだけれども、せっかくだからとフリードリヒ通りまで出て、かの有名なチェックポイント・チャーリーへ。

何かと言うと、東西が分断した時に、西側と東側の検問所があちこちに出来たのだけれど、そのなかでもここは外国人用(軍関係者とか政府要人とか外交官とか)の出入り口となったので、世界的に有名になったのであった。最近だと映画の『コードネーム・アンクル』に登場した気がする。

現在ではすっかり観光名所になっているのでうかつに近づくと記念写真とお代を取られるとのことであった。タイムズスクエアみたいだな…

表裏でソ連とアメリカの軍人の写真が変わる。

なんでチェックポイント〝チャーリー〟かというと、検問所をABCで分けていったところ、ここは〝チェックポイントC〟になり、NATOフォネティックコードからチャーリーになった。西側だけの呼称。
ちなみに〝A〟はアルファ、〝B〟はブラヴォー。

ガイドをして下さった中村さんと別れ、本当はこの後ひとりで博物館に行こうとしていたんだけどへとへとに疲れたので終了。ホテルに戻りまして晩ご飯…

簡単だけど、24時間いつでもフリーで軽食が取れるのでたいへんありがたかった。

翌日はグルーネヴァルトからバーベルスベルクへ!
作中で主人公が歩いた道を辿ったり、連合軍博物館(あるんですよこれが)を見学して資料にうはうはしたりします。

あと二回続くよ!お食事は別枠でお送りするよ!



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