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ピーキー・ピッグ・パレスに関する哲学的考察

激情というものは、この理由から、マルブランシュ神父が言うように、すべて自分自身を正しいと認めるのであって、我々が激情を感じているかぎり、対象に対して合理的で釣り合っている、と思うのである。

アダム・スミス『道徳感情論(講談社学術文庫)』 p.271 Kindle版

ジャンケットバンク143話を読みましたか?

自分と同じ読者の中には、「ピーキー・ピッグ・パレス」における勝負の流れの転換と、村雨礼二の覚醒自体を理解していても、理屈でその二つを結び付けて承服出来た人はあまり多くないのでは?

そこで本記事では、「ピーキー・ピッグ・パレス」での勝負が、近代経済学の創始者、アダム・スミスの代表作である『道徳感情論』『国富論』に裏付けられた内容になっていることを説明したいと思います。

この文章を読むことで、あなたも天堂弓彦様――偉大なる神によるお導きの一端を理解することが出来るでしょう。


村雨礼二について

村雨礼二の覚醒について理解するためには、まずは彼自身についておさらいをしておく必要があります。

村雨礼二は、一流のギャンブラーでありながら、医師免許をきちんと取得している外科医です。
趣味は手術であり、自宅にも手術代や道具を揃えて、債務者の人体解剖という異常者としか言いようがない行為を繰り返しています。

©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』第12話

どうしてそんなことをするのか?それは彼の兄に起因しています。
本質に関係する部分なので、少し長いですが文面で引用します。

私の兄は実に素晴らしい人間だ
彼は賢くはないが忙しく働き 忙しさを孤独の言い訳にしない
金と幸福を公平に扱い 失敗を繰り返しながら少しずつ何かを築ける人間だ
ある時胃に腫瘍が見つかり 私は彼の腹の中を見た
幸福に満ちた彼の中身は苦しみが一杯に詰まっていた
死なずとも過労で体はボロボロ ソレを見て私は疑問を抱いた
ここまで苦しまねば 幸福は支えられないのか
だとしたら世界はイカれている 私はそれがあまりにも受け入れられず
他人の腹を開き、今日も世界が狂っていないか確かめている

©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』101話

ここまで苦しまねば幸福は支えられないのか」という疑問こそが原点なのですが、これは裏返しでもあります。

ジャンケットバンクには、誠実さや勤勉さの欠片もないクズ人間が多数登場します。そしてそんな人間が、平然と人を騙して利益を得るような描写もあります。むしろ、ジャンケットバンクに出てくるギャンブラーという存在自体がそのような人間であるともいえるでしょう。

誠実な人間が苦しみ、不誠実な人間が楽をする。村雨礼二が疑問に思う「狂った世界」とは、この逆転現象を指していると思います。

©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』第12話

そうした疑問を持ち、医者として、趣味として診断と手術を繰り返した結果として得たのがギャンブラーとしての強さであり、それは「人間が自分の感情に従って何を求め、そのためにどう行動するかを論理的に分析する力」だと言えるでしょう。

ピーキー・ピッグ・パレス

さて、村雨礼二が戦っている「ピーキー・ピッグ・パレス」というゲームについても言及していきましょう。これも結構、示唆に富んだ部分が多いです。

このゲームのモチーフは当然、「三匹の子豚」です。
三兄弟の豚が自立を迫られてそれぞれが家を建て始め、そこを狼に襲われるというのが大筋の流れです。

実はこのストーリーは時代によって変化しています。元々のストーリを説明すると、楽をして藁の家を建てた豚と木の家を建てた豚は狼に家を破壊されて食い殺されてしまいますが、三匹目の豚が苦労して建てたレンガの家を壊すことが出来ず、煙突から侵入しようとしたところを豚が察知して、逆に煮えた鍋で待ち構えて殺して終わります。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Three_little_pigs,_Img015.jpg

しかし最近になると配慮の結果なのか、藁の家と木の家を建てた豚はレンガの家に逃げ込み、狼もただ撃退されて終わります。それどころか、懲りた狼が改心して豚たちと和解するなど、無私の愛と、敵への愛を強調した物語になっていることもあります。

「ピーキー・ピッグ・パレス」についてですが、ゲームに使う札がこの狼と三匹の豚に対応しています。

狼の札:場に存在する最もグレードに低い豚の中から、自分が一番最初に指定した相手の労働豚を奪える
藁の家の豚(1):三種類の豚の中で最もグレードが低い豚
木の家の豚(2):三種類の豚の中で二番目のグレードの低い豚
レンガの家の豚(×):狼が指定することの出来ない豚

©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』第134話

ここまで苦しまねば幸福は支えられないのか」
三匹の豚の中で、唯一自分の労働豚を確実に守り切れるのは、苦労して建てられたレンガの家の豚をモチーフとしたカードだけになっています。
そして、ゲームに勝利するための核となるのは、相手を騙して狼のカードで労働豚を奪うこと。

これは、村雨礼二が言うところの、狂った世界を表したようなゲームだと思います。

牙頭猛晴と漆原伊月

ジャンケットバンクにおける強いギャンブラーは、特徴的な自論と、それを形成するに至った出自を持ち合わせています。
そしてそれはフィクションには留まらず、現実世界に何らかのモチーフを持ち、それを象徴するように描かれていることが多いです。

本題ではないので軽く触れるだけにはしますが、せっかくなので村雨礼二と対峙する牙頭猛晴漆原伊月について、面白いと思ったポイントだけは紹介したいと思います。

牙頭猛晴について

牙頭猛晴は、レストランチェーンの代表取締役です。そして彼は分かりやすく「富者、億万長者」を象徴していると言えるでしょう。

金持ちでありながら、金に支配されることを否定する姿に違和感を覚えるかもしれません。
しかし実は、アダム・スミスが『国富論』において「富の本質は貴金属(お金)ではなく、労働による生産物である」「利己的な欲こそが、労働による生産を行う動機となり、経済を発展させる」という主張したことが近代経済学の出発点になっているため、歴史的に考えるとむしろ筋が通ったキャラクターになっているのです。

©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』第131話

漆原伊月について

漆原伊月は弁護士ですが、彼は哲学と物理学における「確率論的決定論」に基づいた主張をよくしています。
決定論とは、「結果には原因があり、全ては因果の法則によって既に決まっている」という考え方です。

ゲーム開始前の天堂様との煽り合いでは、以下の発言をしていました。

©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』第143話

これはアインシュタインが物理学における議論の中で、決定論に確率を取り入れた量子力学を否定するときに発した、「神はサイコロを振らない」という格言が元ネタだと思われます。

また、宗教的な決定論では、「全ては神によって決まっている」と考えられていました。しかし科学の進歩によって、世界の仕組みにおける神の役割がどんどん縮小してしまったことも、元ネタの一つかもしれません。

ただし、天堂様の思想のなかで特徴的なのは、「自由意志」の存在を認めていることでしょうか。
「決定論」には「全てが運命のように前もって決まっているのであれば、人間が自分の意志によって何かを自由に選択したり、行動しているという考え方が否定されるのでは?」という議論があります。

©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』106話

そのため、従来の宗教的な決定論に対してだけでなく、決定論そのものに対しても、考え方が対立しています。
(あるいは、宗教的決定論・予定説と人間の自由・意思を無理やり両立させようとしたマルブランシュ神父がモデルかもしれない)

「ピーキー・ピッグ・パレス」では、村雨-牙頭の思想的な対立軸と、天堂-漆原の思想的な対立軸が組み込まれていますが、後者に関しては、以上のような内容だと言えるでしょう。

牙頭と漆原のコンビの謎

さて、牙頭猛晴と漆原伊月、経営者と弁護士である二人のコンビには、職業的には確かに関連性がありそうです。
ただ、自らの欲に従って富を勝ち取る者と、この世は確率で既に決定されていると考える者。親和性があるようなないような奇妙な感じがすると思います。

これは、おそらく、近年の経済学、道徳哲学、政治学における研究を反映したものです。
イグノーベル2022年経済学賞の「才能 vs 運: 成功と失敗における偶然性の役割」や、マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』など、成功者となる要因には運の役割が大きいということを、それまで支配的だった能力主義や競争社会に対する反論として提示することが一つの潮流になっています。

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当たりクジである漆原と、それをつかみ取る牙頭。常に相方のことを考えながら攻守の役割を分業する。勝負の偶然性を認識しており、決して驕らない。このコンビの強さは、そこにあるでしょう。

©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』133話
©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』133話

村雨礼二の苦戦

さて、やっと本題に入ります。村雨礼二はもちろん一流のギャンブラー。一対一では怪物であり、牙頭と漆原の格上であると明言されていながらも、ゲーム序盤では苦戦が続いています。
そして、143話の時点で変化が見られたわけですが、具体的に何が変わったのかを、アダム・スミスの『道徳感情論』から考えていきます。

村雨礼二の強さは、「人間が自分の感情に従って何を求め、そのためにどう行動するかを論理的に分析する力」だと言いました。

であれば、欲望に従って行動する牙頭との相性はこの上なく良いはず。それでも苦戦しているのは、相手がコンビであり連携が完璧であるために、感情が出ないためだと説明されています。
しかし、それでもあるはずの感情をなぜ理解できないのか?

©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』140話
©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』140話

村雨礼二にとって、論理こそが敵を見抜く武器であり、感情は敵に隙を見せるものでしかありません。また世の中には問題とその解決法しかない。
そしてこの世界には奪う者と奪われる者しかいない。幸福を築くためには苦しみが必要で、楽をすれば幸福を築くことが出来ない。

経済学ではこのようなものは「トレードオフ」や「ゼロサムゲーム」とも呼ばれています。あちらを立てればこちらが立たず。一方が得をすればもう一方は損をしてしまう。

©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』142話

しかし現実世界は、全てがこのように簡単に分けられるものではありません。この考え方をむやみに適用してしまうことは、誤った二分法と呼ばれる誤謬です。

村雨礼二は、あくまで自分の疑問を晴らすために手術をしていました。獅子神敬一とのタッグマッチでも、あくまで勝利するために彼を導いた。しかし自分のためにやった行為こそが、誰かを助けることに繋がっています。

そしてこれは、近代における道徳哲学・経済学の「利己的な行為こそが誰かの利益に繋がる」という指摘に他なりません。

いかに利己的であるように見えようと、人間本性のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがえのないものにするいくつかの推進力が含まれている。

アダム・スミス『道徳感情論(講談社学術文庫)』 p.21 Kindle版

社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも、自分自身の利益を追求するほうが、はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。
……もちろん、かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけでもないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかも知っているわけではない。
……だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。

アダム・スミス『国富論II (中公文庫)』 No.2023 Kindle版

村雨礼二にとって理解が出来ないのは、この「利他の精神」です。
自分のやったことが誰かの為になるという事実は、奪う者と奪われる者という世界観では成り立たず、誰かのために何かをするという事実は、人は自分の欲望に従うという人間観では合理の範疇から外れてしまいます。

©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』143話

一対一の勝負であれば、自分と対戦相手しかいないため、間違いなく自分のためにしか行動せざるを得ません。しかし、タッグマッチの場合、相方のことを考えながら行動することで勝利に繋がることもあります。牙頭猛晴と漆原伊月のコンビは、常に相方のことを考えながら戦略を立てています。そのため、村雨がこの二人相手に読みを通せていないのです。

村雨礼二への神託

では、村雨はどうやってこの弱点を克服するのか?その答えが作中で示された通り、「神の声に従うこと」です。

 ©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』140話

神とは、自分自身のこと。神の声とは、自分自身の感情や意志のことです。
主観的には誰しもが神であり、誰かの神は自分にとっての神ではないということになります。

そして、「誰か心当たりでもいるのか?神の声に従っていない人間に」という発言は、牙頭と漆原の二人が常に相方のことを考えながら戦略を立てていること、富や決定論などという客観的なものに縛られていること、言い換えれば、純粋に自分の感情に従って行動できていないことを指摘したものになっています。

 ©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』140話

そして、村雨にとってもこれは同じことです。

ジャンケットバンクにおいて、マフツさんに負けた相手は鏡を見せられることが恒例となっていますが、これは自覚したくない自分の弱点や、トラウマのようなものが映し出されるようになっています。
村雨の鏡に映し出されたのは、ツギハギだらけの人形の中に隠された心。

 ©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』19話

しかし村雨は、道徳哲学で言う自己欺瞞に陥っています。自分自身を騙して、感情をただの弱点であると見做し、ひた隠しにしている。

見たいようにしかものを見れず、人間の本性を必ず悪い方に解釈する。

自分のためだと言いながら手術によって誰かを助けて、勝利のためだと言いながら獅子神を導き、文句を言いながらも他のギャンブラー達と付き合いを続けている。

勇気ある外科医として「誰かのために何かをし続けてきた」、つまり愛のある人間だという一面を、認めなければならないということになります。

自分自身に欠点があると考えるのは不快だから、我々は、不都合な判断になりそうな状況から、しばしば意図的に目をそらす。人々の意見では、自分自身の身体の手術を執刀するときに手が震えないのが、勇気ある外科医であるらしい。また、自己欺瞞という謎めいたヴェール──自分の視界から、自分自身の行為がもつおぞましさを覆うもの──を躊躇なく剝ぎ取る人物も、同様に大胆な人間であることが多い。

アダム・スミス『道徳感情論(講談社学術文庫)』 p.272 Kindle版

そして「誰かの為に何かをするということも自分の為になる」と認識を改めたことで、不合理を合理の範疇に収め、常にコンビ相手のことを考える牙頭と漆原の行動を見抜く起点になったと言えるのです。

©田中一行/集英社『ジャンケットバンク』143話


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