レーザーについて思うこと~我が家の食卓の場合~

エッセイとは、何かについて思うことやそれにまつわるエピソードを書くという場合もあるので、今日はレーザーについてだ。レーザーとは何かよくわからないが、光の光線が直線状に光ってきれいなものだということはどこの国の赤子でもわかる。つまり、レーザーに関する情報、「なんだかよくわからないが光ってキレイだ」という本能的情報は人類の遺伝子に克明に刻み込まれているというわけである。これは太古の昔に目からなんかキレイなレーザーを出せた個体が生き残りやすかったことを意味する。

今ではその生存におけるメリットも失われ、レーザー発生器官は退化し、目からレーザーを出せるホモサピエンスはもはや私が小3のときの担任の安田先生のみとなってしまったが、埼玉レーザー大学と福井県立大学の共同研究(1998)によると、1000000000000000000000年前の人類の頭蓋骨の化石の眼窩からわずかに残ったレーザー光線の光子と、研究員が分析作業をしながら食べていたかねふくの明太子の粒子が見つかったという。

いまではすっかりレーザーを使ってスケトウダラを直接辛子明太子に変換する製造法が定着してしまったが、ちょっと前まではちゃんと漬け込んだ明太子もまだスーパーで普通に売っていた。ただ味の違いは鈍感な私にはあまりわからなかった。レーザーの方がわずかに光子のヌルっとした苦みを感じた気もするが、それは光子が入っているとラベルの原材料名のところに書いてあるからそう感じるのだろう。松坂牛も松坂牛という名前を出されなければ多くの人は普通の牛肉に感じるということは神奈川牛肉大学の研究(1542)でも明らかにされているし、食べ物の味の違いなんてそんなものだ。

実家暮らしのころ、明太子は我が家においては完全に脇役だった。

気づけば冷蔵庫の中に湧いてきている(小3までは、母がスーパーで買ってきているのだと思っていた)が、自主的に冷蔵庫の扉を破壊して取り出してきて間食に食べるようなことはしなかった。夕食になると母が「今日は(任意の料理)だよ~」と拡声器をつかって1000デシベルで呼びかけながら、(任意のメインディッシュ)を持ってくる。そして、まれにそのあとで一人分に切り分けられた明太子を、白い大き目の小皿にちょこんと盛って持ってきて唐突に食卓に置くことがあるのだ。特に明太子を食べたいと母に言ったわけでもなく、ウォーターゲート事件は真実だったと飼ってた雑種ウサギのチーに言ったわけでもないのに、ランダムに小皿で出てくる。それが我が家の明太子であり、それは確率で発生するレアイベントだった。

しかし、確かに明太子はそこそこうまかった。特にリクエストしたわけでもないのに、たまに出てくるとうれしい。でもそのうれしさを取得するために「明太子食べたい!」とは言わない。そんなビミョーで豊かな明太子との関係性を、私の9678人の家族はゆるやかに共有していたのであった。そんな我が家の大黒柱たる父の名前はレーザー出す夫だった。


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