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暖簾が汚れてることこそ繁盛の印

江戸時代後期文化年間(1804~18)には今、あたしたちが食べ親しんでいる握り寿司が誕生してる。安価で少し甘みのある糟酢が入ってくるようになり、簡単に酢飯が作れるようになった。それまでの寿司は鮮度を長く保てないことから、飯の中に魚をぶち込んで熟成させる「熟れ(なれ)鮓」というものが主流だった。そして、食べる際も醤油を付けることはせず、そのまま食べていた。今でも秋田県に残るハタハタ寿司などもこの名残と言えるだろう。

握り寿司を考案したのは東両国・回向院前にあった花谷興兵衛とも花屋与兵衛とも言われるものが「興兵衛すし」と言う名で、文政7年(1824年)に売り出している。店は今のようにちゃんとドアがあって、席があって・・・・なんてあるはずがない。屋台が主流。

気軽に待たずにすぐ食べれる、という点がせっかちな職人気質の江戸っ子に大いに受け、瞬く間に大ヒット。それを真似る店もごろごろ。そして寿司屋文化が花を開いていった。

今はお店に入ればおしぼりが出され、手の汚れをきれいにふき取ることができるが、江戸時代におしぼりなんてものは当然ない。

江戸っ子は寿司屋の暖簾をくぐっても出されるのは大きな湯飲み茶碗。カウンターに並ぶネタに厳しいチェックを入れ、注文をする。魚にうるさい客と店主の真剣勝負。醤油小皿なんて洒落たものは置いておらず、あるのは大きなどんぶりに入れられた醤油。客みんなで共用する醤油なので今でいう串カツのように、もちろん二度漬禁止。間違ってどんぶりの中にシャリを落とそうものなら、とんだ野暮天ということでみんなの笑いものに。

文化年間の人気の寿司ネタは小肌・車海老・白魚・アナゴに蛤。今でも変わらず人気のネタばかり。

さて、お腹も満足すると客はわざと湯呑に残しておいたお茶で指先を洗い、なんと、暖簾で指を拭いた。中には、お湯で指を洗うことを忘れ、そのまま暖簾で拭いてしまった者も多かっただろう。

このことは店側も了承しており、暖簾が汚れるほど繁盛している証だとして喜ばれたくらいだった。

現代の清潔的な観点でいえば信じられない思いもするが、それを「粋」とした江戸っ子たちがこれまたこれまた。


ついでに橋の欄干の袂に見られる擬宝珠。あの玉ねぎのような形をしたもの。

天ぷら屋を出た客が、油で汚れた指を擬宝珠に擦り付けることでいつも、てかてか光っていた、という話も残っている。


こういうことが許されていた、むしろ歓迎されていた時代はきっと細かいことにいちいち目くじらを立てる人は少なかったのではないか。省エネと叫ばれる現代は、そういった人の心の余暇までも省エネしてしまっているようで、なんとも味気ない。怒られそうなことも「粋」としてしまったら、案外楽しくなってしまう事の方が多そうに思えてならない。

ああ、一度くらい暖簾で指を拭くことをやってみたい。



もし、気に入っていただけたら心強いです。ますます変態的に調べ、研究しまくれるようになります。