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トランスジェンダーとして生きるって一体どういうことなのか。心や精神面でのこと。

めちゃめちゃわかるわ。

とヘドバン頷きしてしまう記事を読んだ。

この方は28歳でトランスやんって気づいたそうだが、僕は20歳で違和感に向き合った。そこから色々探求期間を経て、24-25歳くらいで「男性やわ」に落ち着いて今に至る。

この方が書いている、身体への関心の薄さとか、記憶がなくなること(そして自分を生きるに従って思い出すこと)とか。そしてこれ。

「自分が性同一性障害だということに気づかなくて身体の方の性別でずっと生きてると、本来の性別の成長や時間が止まってしまうのです。」(記事より引用)

めっっっっっっちゃわかるーーーーーー!!!

山に駆け上がって頂上から「わかるーーーっっっっ!!!」って叫びそうなくらいわかる。わっかるーーー書いてくれてありがとーー!!!

自分じゃない自分で生きるって、積み重なっていかない。
ただ周囲に合わせて反応的に体を生かしているって感じ。
だから、感情を伴う記憶(=思い出)が残らない。それこそ画面越しに世界を見ているみたいで、心が動かないから。そうやって多くのことを忘れていってしまう。

以前別の友人と話した時に出てきたイメージで、トランスとして生きることが、ロボットの操縦席に乗ってるみたいな感じがあったんよね。
みんなは、女性の体の外側の俺(ロボット)を俺だと思ってて、そのロボットと交流して関係性を作っていく。でも俺は操縦はできるけど厚いガラスに阻まれて声は届かない。俺の人生だったはずなのに、外側のロボットが俺を生きていく。

そしていざ操縦席から出て、「俺だよ!」ってみんなに話しかけても、突然登場した男を、すんなりHeeだと認識するのは難しい。そらそうやろ。
そこから、操縦席から出た生身の自分で、また一から関係性を作っていくことになる。

自分を隠して、大人になってからトランスであることを認識して自認する性で生き始めるトランスジェンダーの困難というか悲哀というか切なさって、こういうところにもある気がするんだよな。決して身体の違和感に悩むだけではない。決定的に、自分という存在の認識に、社会や周囲とのズレが発生する。
自分としての文化や歴史、それに伴う関係性や居場所を十分に持たないことによる、心許なさとか、欠乏感とか、自信のなさとかを抱える。
俺と同じように感じてる人っているんだろうか。

俺は20歳の時に気づいて、うろうろしながら生きてきたので今中身は13-14歳くらい。中学生男子。思春期か。だから最近いろいろ揺れてるのか。

男性自認がそれなりに定まった頃から考えたら8歳くらい。小3男子ってやんちゃの代名詞では???だから最近なんかオオカミとかアクティブな人出てきてるの??

悲哀は未だあるし、多分消えない。けれど、これが俺の人生だから仕方がない。
この点は十分に嘆きたい。

けれど一方で、フランクルよろしく、この人生を与えられた俺は、人生から何を問われているのか?ここから何を学び何を世界や自分に与えていくのか?そこを探究し続けることが、自分の道なんだろうと思う。

実際、20歳に比べて飛躍的に自分を好きになった。
男の自分で、居場所も仲間も友人も得ることができた。

人生は良くしていけるのだと思う。でも悲哀を忘れる必要もない。
全てを含みながら歩くことは、ロボットの中で生きる頃より、ずっと瑞々しくて生きている実感を感じている。


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