見出し画像

俺はココペリ

仲間とやってきた場について、今後の関わり方を話す中で、自分の役割がはっきりしてきた。

その場は人がやってきて自分の話をする場で、自分たちは運営としてファシリテーションしたり、ホールドしたりする役割を持っていた。

のだが、俺はこの役割が長らく不得意だった。2年もやっているというのに。笑

人の感情や大切な話をホールドできる人って「大人っぽい」と思って憧れていたし、立派な人の証なような気がしていた。
広く人の様子を見て取れて、誰も孤独にならないようにと含んでいけるような、落ち着きと威厳と包容力を持った人になれたらどんなにかっこいいかと思ってきた。

けれど俺は、話を聞いていたら色々想起されて話し始めたくなってしまうし、何より(これは色々理由があるんだけど)沈黙が苦手なのだ。

ホールドしたり、待ったり、守ったり、座ったり、そんなことが苦手で苦手で、自分のできなさに打ちのめされることがままあった。

けれど、ずっと自分が何者なのか自己探求をしてきて、だんだん「ファシリテーターじゃなくてもいいじゃないか」という意識が育ってきた。

俺は、理想や夢や物語を語り、様々な土地を訪れては出逢って話して聴いて、目の前に現れた人をその短い時間中めいっぱい大切にする。
そんなことならできるから、それでいいじゃないか、と思えてきた。

今日はじめて、「ココペリみたいに」と言葉が出てきた。

ココペリは、先住民の文化の中の精霊。
各地を旅して楽しい異国の物語を語り聞かせ、智慧を運び、異なる土地のタネを蒔いて、五穀豊穣を音楽と踊りで祝う存在。

場所を守り続けるというよりも、旅人として新しい風を吹かせて、人々に豊かさをもたらす存在。

ココペリみたいに、スナフキンみたいに、物語を運んで分かち合う方が俺らしいって思った。
これは、仲間からもそんなあたたかいフィードバックをもらったのもとても支えになった。

旅人は根無草のようで、実際自分は何も積み上げられない根気のない人間なのではないか、語るばかりで何も成してはいないのではないかと、と情けなくなった時もある。
けれど、これが自分の本分で、自分は事実、このような生き方に生命が力づけられる。

腹を決めて、心を込めて、語ろう。

語ることを自分の仕事とし、真剣に、ハートから語ろう。

この記事が参加している募集

旅の準備

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?