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手放せば入る。爆速で。

ひとつの物事に関わることを、正式に手放した。

そしたらなんか新しい出来事が、まちわびた!とばかりに飛び込んできた。
手放した1時間後の話である。

なんだか、それがまるで捨てられた子犬が、雨の中胸に飛び込んできたようで、判断したり熟考したりする間もなく、戸惑いと無碍にできない思いで思わず「うん」と言ってしまった。

うち、アパートだから犬飼えないのになぁ、とか思う感じ。
でもこの子を連れて帰ることはどこかで決めてる感じ。

実際は犬ではないが、それは責任がある事柄だ。だからまだちょっと揺れている。できるのか?
けれど、ただ流されたのではなく、縁を感じてしまったんだよな。
実際、そこに意味を感じた。

学んでいて時折リマインドされるんだけど、本当に自分の道を歩くって、本当に自分が自分であるという責任を果たしていくって、いつもハッピーキラキラ心地よい!みたいなのじゃない。

楽しむのはもちろんいい。
でも、雨も風も日照りもある中で、選択的に自覚的に歩くということ。歩き続けるということ。

そう思うと、今回の出来事をどう捉えるのか。

自力では立てない立場や役割のドアが開いて、それは先方が俺をとっても歓迎し求めていることだった。
招かれるということに、俺はよく意味を見出す。「人生があなたになにを求めているのか」につながると思うから。

その立場での景色を知らないままに、Noを言うのは違うとハートが言った。

俺が何かを選択する時、理屈じゃなく強く動かす声がある。
それが、「そこに立ってみた時、どんな景色が見えて、自分がその時なにを感じるのかが知りたい」という動機だ。

これは理に適ってない、けど原始的で強烈なエネルギーだったりする。
これを感じてしまうと、その道を走るしかないと思うくらい、俺の選択に影響を及ぼす感覚。

進撃の巨人やないか。笑
エレンの「見たかったんだ、どうしても」やないか。その衝動や希求に抗いがたいという意味で、俺もまた自由の奴隷。
おおー、エレンはこんな感覚だったのか。。(たぶん)

独演会も、はじめはずっと嫌がりながら続けてきた講演も、その道のりがしんどいのなんて頭じゃわかっていたけど、その先を体験したかった。

ファーストピースを共に学んだ仲間に、俺は東のエネルギーだと言われた。
東は「光」「誕生」のエネルギー。
完璧な光が、あらゆる体験をしたくて、自分を変化させる決断を下した物語のエネルギー。

自分は光であることが知りたい。
自分の全体性に出会いたい。
だから多様な体験をしたい。あらゆる景色が見てみたい。
それを通して、光であったことを思い出したい。

そこに焦がれるのは、やはり間違いなく、ハートの声だ。

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