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【中国映画】愛と欲望の不動産業界~ロウ・イエ監督『シャドウプレイ』~

 昨今では中国の大手不動産会社の経営危機が伝えられ、乱脈経営や乱開発について日本でもかなり知られるようになった。関連業界も含めれば、GDPの3割を占めるという不動産業界の今後が注目されている。
 そもそも、中国で都市開発の失敗から「鬼城(ゴーストタウン)」「爛尾楼(未完成の建物)」が出現するのは、昨今に限った話ではない。2010年代初めごろでも、再開発のため引越しを余儀なくされたが、完成した団地には誰も住んでいないという話を耳にしたことがある。経済発展が進む時期であっても、背後には多数の痛みや失敗があった。


映画『シャドウプレイ』

 開発が進むなかで、郊外の村は、急速に発展した市街地に囲まれる。こうして中国の各地に「城中村(都市のなかの村)」が出現した。2018年の中国映画『シャドウプレイ』は、改革開放の先陣を切った南方の都市・広州の城中村、冼村(シエンツン)から物語が始まる。冒頭の立ち退きを求める当局と、住民の対立、暴動のシーンは2010年に実際に起きた事件に基づいている。

『シャドウプレイ』
原題:風中有朵雨做的雲
監督:婁燁(ロウ・イエ)
製作年:2018年
製作国:中国
上映時間:129分
日本公開:2023年
日本版DVDには同作品のメイキング『夢の裏側』を収録。作品の撮影、政府による検閲を収録。

 ただし、作品の主題は犯罪をめぐるサスペンスである。暴動の場面で、住民の説得にあたった市の担当者、タン・イージエ(唐奕傑)が、秘書と別れて行動した一瞬に屋上から突き落とされ、事件の謎解きをめぐって物語が展開する。若い警察官、ヤン・ジャートン(楊家棟)が事件を担当し、タン一家の黒い歴史にまきこまれてゆく。
 役人のタンと不動産業者ジャン・ツーチョン(姜紫成)は学生時代からの友人だった。タンの妻リンはジャンと不倫し、そしてジャンのビジネスパートナーであるアユンは色仕掛けでタンに近づく。しかし7年前、アユンは失踪していた……
 不動産王ジャンの成功の背後にある金と性の赤裸々な欲望。妻に対して暴力をふるうタンのサディズム、夫の暴力と自身の罪に心を病むリン。経済的成功と引き換えにするかのように、彼らは刹那的で暴力的な生活を送り、心をすり減らしている。タンとリンの娘ヌオは、始終さえない顔を浮かべて街をさすらう。
 人の感情を揺さぶる登場人物の形象と迫力ある暴力の描写は、この映画を芸術映画に閉じ込めていない
 ロウ・イエ監督は若手俳優に「商業映画かそうでないかの区別はないと思う。「私は商業映画に出る」とか言わないだろ。あるいは「芸術映画に出る」とか役者としては区別はないはずだ。商業映画でも同じく演じる。……監督の仕事にも違いはない」と熱弁をふるう。

ロウ・イエ作品 映像の美とリアリティ

 ロウ・イエ監督の映像は美しい。『ふたりの人魚』(原題:蘇州河)や『ブラインド・マッサージ』(原題:推拿)など同監督のほかの作品でも、庶民の生活を捉えた場面は、まるで現実の場面や生活のなかにカメラが入り込み、ドキュメンタリーを撮影しているような臨場感や現実感がある。外からはわからない内部からの目線、生活者の目線でとらえた中国がそこにある。サスペンスと派手なアクションに彩られた本作も、映像の力が地に足のついたリアリティをもたらしている。
 同作品のメイキング『夢の裏側』(監督:マー・インリー)を観れば、自然に見える表現のために監督がいかに心を砕いたかよくわかる。 
 暴動の場面では自然光での撮影にこだわり、現場からのドキュメンタリーのような映像を撮影した。俳優のメイクについても、ベースメイクはするが肌のシミまでは消さないように指示した。リンを演じた女優については肌が美しすぎるので荒れて見えるようなメイクを施し、乱れた人間関係に疲れ切った中年女性の姿を演出した。現実感と作家性の併存こそが、この監督の最大の魅力かもしれない。

メイキング『夢の裏側』 自由と検閲

 それにしても、『夢の裏側』では監督とキャスト、スタッフが映画の細部について議論をし、自身の映画論を熱く語る。撮影監督ジェイク・ポロックは「監督は、もっと自由にという。だから自由の幅を考えるんだ……僕が思ったより監督の自由の幅はもっと広い」と語る。中国の文化界はかくも自由なのか。
 しかし、映画が完成すればそれは容赦なく政府による検閲にさらされる。2016年に撮影、2017年に完成した映画は、2年後の2019年にようやく公開にこぎつけた。

開発とバブル経済

 しかし、当局が削除を求めた冼村の映像によってこそ、本作品には単なるサスペンスにとどまらない歴史性が刻まれている。香港、深圳、広州という経済地域を抱えた珠江デルタは改革開放と都市開発のひずみを描くのに最もふさわしい場所であるかもしれない。
 1980年代日本のバブルも、その後に成長した世代の筆者にとっては、色褪せた夢、キッチュな愚かしい欲望の時代、我々の世代を奪い去った忌むべき過去にすぎない。2010年代の後半にどうやら中国も同様の歴史をたどっていると感じたときには、深い失望を覚えた。
 しかし、この映画が公開された2019年頃には、中国の将来への確信は大衆レベルにも深く浸透し、それに反論するには一種の勇気を必要とした。不動産危機が騒がれる現在から観れば、この映画は発展の夢を見た人々の表象、人々が成功に酔った時代の感情を描いた作品としていま一度輝きを放つかもしれない。

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