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無限の世界を「あるがまま」に見る目を取り戻す。ということ。

ぼくら現代に生きる人類は、「近くにある物は大きく見え、遠くにある物は小さく見える」と思い込んでいます。「今見えている水平線や山嶺の向こうは、ここからでは見えないのだ。」とも思い込んでいます。

つまり、「見たまんま」の「有限の世界」を生きているのです。

こんにちは。福田です。

こう言うと、多くの人は「そんな事、当たり前じゃないか。」と思うかも知れない。実際に近くの物は大きく見えるし、遠くの物は小さく見える。水平線の向こう側が透けて見えはしない。写真を撮ってみても、そうなっているじゃないか。と。

けれど、絵画の歴史を紐解けば、ぼくら人類が写真のような遠近感のある絵を描くようになったのは、ごく最近だという事がわかってきます。


中世以前の世界の見方。

かつての人類は、こんな絵を描いていました。

奥の人と手前の人が同じサイズ。
平行線が多く消失点がない。
手前の足が大きくなってない。奥の頭が小さくなってない。
奥行きなし。絵というより図。

ぼくら現代人から見ると、今の画家が描く絵と比べて「下手くそ」とか「リアルじゃない」とか「デフォルメが効いている」とかいうふうに見えます。

初期ルネサンス時代(15世紀)に遠近法の研究が始まったり、人間の目の構造の研究が進んだり、カメラオブスキュラ(レンズで外景を暗室内部に投影する装置)が発明されたりすると、世界中で描かれる絵が一挙に変容し、人類はみんな「写真のような絵」を描き始めます。

手前の人は大きく奥の人は小さい。
消失点に線が集まっていて、立体的。

この変化を、現代に生きるぼくらは「人類が世界を正確に捉えられるようになったのだ」「進歩したのだ」と考えがちですが、ぼくは必ずしもこの変化が「世界を正確に捉えられるようになった」とは思いません。むしろ、人類は写真の発明によって一様に「世界を歪めて(また狭めて)捉えるようになった」とも言えるのです。


世界をありのままに描いていた。

つまり、写真発明以前の人類は、「本当は写真のように描きたかったけれど技術が足りなくて平面的な絵しか描けなかった。だからこんな絵になった。」のではなく、「実際に世界はこうなっている。だからこんな絵になった。」のだとぼくは考えているのです。

そうは言っても、現代に生きる人からすると、にわかには信じがたいですよね。遠くの物も近くの物も同じ大きさに見えるなんてあり得ない。今、死角になっている部分の景色が見え続けるなんてあり得ないと。

でもぼくは、昔の人と今の人の絵の上手さは変わっておらず、世界の見方が変わっただけなのだ。と、ほとんど確信しています。

では何故、ぼくはそう確信し断言できるのか。

無限の世界を取り戻しつつあるぼく。

それは、今のぼくが、実際に世界をこう見ているからです。

これは、ぼくが描いた、ぼくの家の絵です。↓

遠近感なし。

これは、近所の公園の絵。↓

遠近感なし。

そしてこれは、船の絵です。↓

遠近感なし。

ぼくには、世界がこう見えています。こういうふうに捉えている、とか、何かの例え話ではなく、実際にここに行けば、こう見えるのです。

ぼくは始めからこの目を持っていたわけではありません。この見方ができるようになってきた(正確には思い出してきた)のは、ほんの1〜2年前の事です。

なぜこう見えるようになったのか?


そう描いたらそう見えた。

それは、こう描くようになったからです。

「こう見えるようになったから、こう描いた。」ではなく、「こう描いてたら、こう見えるようになった。」のです。

この3年くらい、ぼくは毎日、自分の家や近所の施設や屋外を散策して、こういう絵を描いています。

「こういう絵」の描き方を、ぼくは「無限画法」と名付けました。

(※無限画法の定義や理論は下の記事を参照してください)


描き方を変えたら生き方が変わった。

世界の見え方が変わったので、当然、ぼくの判断基準も変わり、行動も変わりました。

どう変わったかを一言で表すなら「全体のために自分を使うようになった」とでも言いましょうか。

普段から見えている範囲が広大になったり、その範囲内のディテールがつぶさに見えてしまったりするので、自分の普段の何気ない行動が、遠く離れた別の人や動物や植物などを含めたシステム全体に及ぼす影響を常に意識せざるを得なくなってしまったのです。

ぼくがコンビニでおにぎりを2つ買うという事は、日本の経済システム全体にどういう影響を及ぼす事に繋がるのか。ぼくが庭の雑草を20本引き抜く事で、裏山に住むイノシシの暮らしがどう変化するのか。ぼくが近所の浜に落ちているペットボトルを4本拾う事で、隠岐諸島に住むサンショウウオの食べ物がどう変わるのか。

そういう事を見ながら暮らすようになりました。「考えながら」ではなく「見ながら」です。

結果、ぼくは東京から香川の離島に家族で移住し、欲しい物も行きたい場所も会いたい人もなくなり、「グラフィックデザイナー」から「ただ絵を描く人」になりました。


この先、人類全体の生き方が変わる。

中世以前に描かれた絵を真似る事で、ぼくの生活は劇的に変化し、自分の中で、文明の歴史に関する多くの仮説が立ち上がりました。

ぼくら人類はこれまでの800年くらいで、どんどん「より強いメッセージを放つ絵」を描き、「より激しく短い音楽」を演奏し、「より伝わりやすい文章」を書き、より忙しい人生を送るようになってきました。

けれどこの先、800年ほどかけて、ぼくらはきっと、どんどん「よりメッセージの薄い絵」を描くようになり、「より静かで長い音楽」を演奏するようになり、「より意味不明な文章」を書き、より暇な人生を送るようになるのだと、ぼくは考えています。

実際にここ数年間の社会の変化を観察しても、「ない物を作る」から「ある物を使う」への流れがすでに始まりつつある事は明白です。

この話は長くなるし本題からズレるので別の記事で書きたいと思いますが、とにかくぼくは、これからも無限画法で巨大な一枚絵を描き続け、「ぼくたち」の範囲を拡張し、視座を高め、お絵描き大好き人間として、人類の進化を手伝う存在であろうと思います。

これはぼくが描いたぼくです。

家族をはじめ、こんなぼくの暮らしを何年にもわたってサポートしてくれている多くの方々に、心の底から感謝しています。本当にありがとうございます。この御恩は、「お絵描きを通じて大自然の流れを手伝う」という形で、ダイナミックに返し続けたいと思います。

感謝感謝、感謝です。

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