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ぼくはお絵描きを通じて、うっかり文明を前に進めてしまうかもしれない。

こんにちは。お絵描き大好き福田です。

福田です。

ぼくは、Big Picture 2039という、一見、常軌を逸したコンセプトの絵を日々描いています。

常軌を逸したコンセプトの絵なので、描く過程で、普通の描き方では描きたい絵が描けない事がわかり、仲間たちと試行錯誤を続けながら「作り方を作る」という作業を3年かけてやってきました。

そんな日々を続ける中で、ふと「あ、ぼくは美大で教わるのとは違う画法で絵を描いているな」と気付いたので、その画法に「無限画法」と命名し、定義し、運用することにしました。

そして運用する中で「この画法は、どうやら人類を前に進めてしまうな」と感じ始め、1人で興奮しているので、その興奮を記事にしました。

「ぼくは、お絵描きを通じて人類を進化させることになっちゃうかもしれない。」

「ぼくは、言葉を用いずに「意識とは何か」を隈なく説明するのかもしれない。」

「ぼくは、絵の力で次なる世界文明を立ち上げる手助けをするのかもしれない。」

直感的に、けれど切実に、そう感じたり思ったりするのです。「無限画法」で絵を描くということは、そういうことなのです。

軽い気持ちで描きはじめたBig Picture 2039というアート作品に、いつのまにかぼくは人生を懸けて取り組みはじめています。

さて、ではそもそも。


無限画法とは何か

ある空間をパースペクティブ(遠近法/透視図法)を用いず、ある意味で平面的に描く事によって、画面に描かれる世界の範囲を無限に広げていくことができる絵画の技法です。

昔のドラクエとかポケモンみたいな。

画面に描かれる範囲に制約がなく、ある世界観を広大な画面に連続して表現することが可能であり、そこに時間的な推移を盛り込むこともできます。

外部環境を写生(再現描写)する場合には、1人の人間が肉眼を通して(1台のカメラがレンズを通して)同時に観測できる範囲には限界があるため、多くの場合、作家が周囲を散策しながら「異時同図法」を用いて、作家自身の姿をも俯瞰しながら制作することになります。

画面に自分も入っちゃう。

無限画法で描かれた絵には視点や焦点、画角が存在しません。そのため、絵の全体像を視野に入れず特定の箇所に近付いて部分を見たり遠ざかって見たりしても、常に鑑賞者の目を中心として「自分がそこから見ている」感覚を得ることができます。そのため、ある程度の大きさと密度を備えた作品の場合には、鑑賞者は移動しながら(又は画面を遷移させながら)鑑賞することになります。また、画面を分割したり折り曲げたりしても違和感なく鑑賞(描画)することができます。


以上が無限画法の大まかな説明です。

百聞は一見にしかず。古今東西の無限画法で描かれた事例作品たちをご覧ください。

江戸時代の日本画
昔のテレビゲーム


建築図面


古代エジプトの壁画
うちの娘が描いた絵

などなど、「奥のものは小さく手前の物は大きい」というルールが適応されていないノッペリした絵は、無限画法で描かれていると考えて問題ないかと思います。


人間の目は世界をどう見ているのか。

写真のように、ある時ある地点から見た世界を描く、という透視図法的な立場からすれば、無限画法的な描き方は遠近感が失われた「破綻」なのですが、実際に鑑賞(没入)してみれば自然でリアルな世界だと感じることができるはずです。

と言うのも、透視図法的な立場、つまり一点から見たままに描いた写真のような見え方は、必ずしも「目で見たまんま」ではありません。

人間の目はそもそも2つあって、それぞれの像の差異から脳が経験則で距離感や立体感を割り出しています。必ずしも一点の消失点を元に、遠近を認識している訳ではありません。遥か遠くの富士山のように、見る対象が離れるとノッペリと平面的に見えるのはこのためです。

毎秒のように膨大な情報を撮って再編集し続けている「眼球」。

また、人間の目は自動焦点と自動露出の機能を持ち合わせているので、常に見える箇所全てにフォーカスが当たっていると感じるし、どんなにコントラストが強い風景でも「白飛び」も「黒潰れ」も起こりません。

さらに、人間の目(瞳孔)というのはフレキシブルな眼球や首や脚の上に乗っているので、常にその位置や角度を変化させ、場面に応じて視点を自在に移動させ、更には記憶の中で複数の視点を合成させながら見ています。

つまるところ、透視図法的な写実も、自分が描きたいような視点を取り出してくるという、ある種の「様式化(デフォルメ)」なのです。

なので、透視図法的な立場からすれば、無限画法的な描き方は遠近感が失われた破綻ではあるのですが、逆に無限画法的な立場に立ってみれば、透視図法的な描き方のほうがリアルから情報が大幅に削り取られてしまっているように見えるのです。


2つの「リアル」。

外部環境をどう認識するかの違いなので、「どちらの描き方が正しい」という事はないのですが、それぞれの画法で絵を描いている時の作家のメンタリティは、真逆と言っていいほど違っています。言葉では表し得ないような気もするのですが、誤解を恐れずその違いを無理矢理に言葉と絵にするならば、以下のようになります。

「透視図法」は、今ここに居る、特定の「自分」から見た世界の本質を相対的に描き切る。↓

パースで絵を書く人の世界認識。


「無限画法」は、自我(エゴ)を無くして、ただ無限に広がる絶対的で無意味な世界を描き続ける。↓

無限画法で絵を描く人の世界認識。

読み手に伝わるかどうかはさておき、ぼくの中ではなかなか上手く言い得ているなあと思います。

さて、ぼくはここ最近ずっと無限画法で絵を描き続けているのですが、その中で重大な2つの事実が発覚しました。

1つは、「無限画法で絵を描く」または「無限画法で描かれた絵を見る」と、「無限画法的に世界を認識する」ようになる、という事実。

もう1つは、世界に対する認識方法が変わることで、行動(生き方)が変わる、という事実です。

実際にぼくは、この絵を描きはじめる前には見えなかった物がはっきり見えるようになったり、逆に見えていた物がすっかり見えなくなったりしました。文字通り、現実の「見え方」が変わったのです。

この2つの事実に身をもって気付いた時、「あ、ぼくは、お絵描きを通じて文明を前に進めることになっちゃうかもしれない。」と思ったのです。

具体的にこの文明がどう前に進むのかは、長くなりすぎるので、また別の記事で書く事としますが、とにかくぼくは、無限画法で「地球上の森羅万象を1枚絵で連続的に描く」という仕事に人生を賭けてみようと思い、日々Big Picture 2039の制作に取り組み続けています。

作品の一部。この中にぼくも描かれています。

1人の男が人生を捧げるくらいの価値が、この仕事にはある。と、普通に思えるし、この仕事に取り組んでいる時にこそ、ぼくは「生きてるなぁ」と感じるのです。

この生活を続けられるのも、ひとえに、いつも様々な形で支えてくれる家族、美香、地星、空海、光影をはじめ、毎週のミーティングに参加してくれている仲間たち、そして毎月定額支援してくれている多くの人たち、ピンチの時にお金や野菜を贈ってくれる多くの方々、さらには、この記事を読んでくれているあなたを含め、この世界を成り立たせてくれている全ての方々のお陰です。

本当に、本当に、本当にありがとうございます。

このご恩を背に受けて、ぼくはこの後も、iPad片手に、世界を歩き回ったり道端に座り込んだりしながら、Big Picture 2039の制作をコツコツと続けたいと思います。

奇跡のような日々に、感謝感謝、感謝です。


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