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好きになるとは、嫌いになることだ

石を投げれば飲み屋に当たる。

そんな言い回しがしっくり来るのが中目黒という街だ。改札を一歩出れば、ありとあらゆる飲み屋が目に飛び込んでくる。立ち飲み屋でひとり生ビールをくいっと飲み干すくたびれたサラリーマン、おでんをつつきながら日本酒を味わう若い女性たち、はたまた暗がりのバーで肩を寄せ合いながらシェリー酒に口をつける大人のカップル。訪れる人々が皆思い思いの形でグラスを、もしくはおちょこを傾ける。高架下で焼き鳥の串を握りながら、目黒銀座商店街でサムギョプサルにかぶりつきながら、もしくは目黒川沿いで小洒落たイタリアンに舌鼓を打ちながら、人それぞれのスタイルで酒を呑む。

ぼくは30歳になるまでの少しの時間を、そして30歳になってからの少しの時間を中目黒で過ごした。オフィスが位置する目黒に程近いという理由で…といっても実際には歩くと30-40分ほどかかる距離があったものの「近い」と自分に言い聞かせて住んでいた。それはもちろん中目黒で飲むことがなによりも魅力的だったからだ。


今日はどこで飲もうか。そう考えたときに思いつくお店がいくつかあった。その中で一軒、ノンスモーキングのジャズバーというのがあった。

中目黒の駅を出て商店街の門をくぐったあと7~8分ほど歩く。そこで住宅街の方に足を踏み入れるとその小さなバーは姿を現す。表には小さな階段があり、それを登り終えると"NO SMOKING BAR MUSICMAN"と書かれた文字と分厚くて真っ黒なドアに迎え入れられる。

中に入るとまるで1960年代にでもタイムスリップしたような感覚に陥る。暗がりの中で明かりはどこまでもぼんやりとしていて、ずらっと並ぶウイスキーの瓶と図体の大きいスピーカーが目に入る。落ち着いた茶色い木で出来たバーカウンターや棚を見るとどこか心安らぐものがある。"ノンスモーキング"というだけあって店内は禁煙で、それがこの手のバーにはない清潔感を醸し出していた。店内は狭くバーの前には5席ほどしかない。にも関わらずぼくが通っていたときには奥の方に無造作にドラムセットが置かれていた。きっとその奥には使っていないオーディオの機器が眠っているのだろう。それを見ただけでなんとなくここのマスターとは話が合いそうだと思った。そして店にはもちろん、ジャズの音楽がかかっていた。

マスターは40代ぐらいの男性だった。穏やかな物腰で白髪とおしゃれすぎない黒縁メガネが好印象の人だった。オーディオが趣味のおじさんにありがちな、くたっとした地味な色のシャツとヨレヨレっとしたチノパンがぴったりと様になる人だった。声はとてもか細く、目の前で話しかけられているのに耳に手を当てて近づかなければ聞こえないほどだった。純粋に音楽が好きで繊細な人なのだろうと察して、ぼくも出来るだけ小さい声で話しかけるように心掛けた。ヒソヒソと。

その日はある土曜日の夜だった。奥の方でひとり40代ぐらいの美しい女性がウイスキーを飲んでいた。ジブリの『紅の豚』に妖艶な魅力を放つジーナという大人のヒロインが出てくるが、まるであの女性のようだった。シンプルな黒いドレスときらっと光る趣味のいいイヤリングが似合っていた。

ぼくは店に入ってカウンターの席に腰掛けた。その女性とはひと席分の間隔を空けて。マスターに適当にスコッチウイスキーのシングルモルトを選んでもらってそれをオン・ザ・ロックで飲むことにした。マスターは器用な手つきでグラスを用意してトクトクトクと音を立てながらウイスキーを注いだ。一口飲んでみる。スモーキーな香りとドロッとした舌触りだけで早くもクラっとした。

狭い店内ということもあって自然と隣の会話が耳に入ってくる。どうやらマスターとこの女性は古くからの友人らしい。「昔やってた自由が丘のお店ではね〜」とか「あの人今なにしてるのかね〜元気かしら?」なんて話をしている。そんな会話を聞くともなく聞いているとチャーリー・パーカーのヤードバード組曲 (Yardbird Suite)の演奏が耳に入ってきた。あの胸が高鳴って思わず踊り出してしまいそうになるテーマがたまらない。ぼくはこの曲が大好きだった。「お?」というぼくの反応を見て取ったかのようにマスターは少し笑みを浮かべてぼくの方を見た。あのか細い声でこう言った。

山中千尋って日本人のジャズ・ピアニスト知ってます?あの人の新しいアルバムをかけてるんですよ。いいでしょ?

確かにとても良かった。ピアノとギターが静かに、そして上品に絡み合うサウンドがそのお店の雰囲気にばっちりはまっていた。ぼくは「とってもいいですね」と返事をして、それから自然とジャズの話をいくらかした。奥に座っていたその女性はイヤな顔をするでもなく、ウイスキーのグラスを傾けながらマスターとぼくの話をふんふんと軽く頷きながら聞いていた。

ある程度話が盛り上がったところで、ぼくとしては自然な流れでこう質問した。

レコードってかけないんですか?

ぼくは会話をしている途中にマスターがCDをかけていることに気付いたからだ。ジャズ喫茶やジャズバーというとレコードをかけているイメージがあった。今流しているレコードのジャケットをレコードプレーヤーの前に立てかける、あの光景が頭にあったのだ。そう、だから自然な質問のはずだった。

だけれど、マスターはその一言を聞いて少しだけムッとした顔をした。そしてか細く、されど怒気をちょっとだけ含ませたような声でこう言った。

ぼくはレコードって嫌いなんですよ。あの"チリチリ"っていうノイズあるでしょ?あれって本来は音楽にないものじゃないですか。だからあれが邪魔なんです。

ぼくはこの発言に心底びっくりしてしまった。片手に持っていたウイスキーのグラスをずるっと落としてしまいそうだった。

普通に考えると「音楽を聴くのが好き」となるとこじらせてレコードをかけたくなるものだと思っていた。レコードの盤に針を落として"チリチリ"と鳴るノイズに耳を立てることが粋な音楽の聴き方だと、そう思っていた。"音楽好き"というアイデンティティーを自己表現する手段としてレコードをかけるオーディオ機器を揃える。そして部屋にキレイに配置したその一式を目にする度に「あーぼくは音楽が好きな人なんだ」と再認識する。告白するならば、少なくともぼくにはそんなところがあった。それが「音楽を深く愛している」という資格とすら思っている節があった。

だからこそ、このマスターの一言は聞き捨てならないものだった。だけれどしばらく間を置いて痛いほど分かってきた。「この人は本当に音楽が好きなんだな」ということを。ウイスキーを冷やしていたオン・ザ・ロックの塊の氷が少しづつ溶けていくにつれ、マスターの音楽への愛というものがじわじわと分かってきたように感じた。たとえハタから見るとそれが少し屈折しているように見えても。

もちろん音楽が本当に好きな人はレコードを素通りしてCDに落ち着くとかそういう話ではない。ただ、音楽を純粋に愛するものとして、その対象に真摯な形で向き合った結果として、その人独自の境地の至るということがある。そう納得した。

それからも音楽の話は続いた。マスターはリンゴ・スターのグルーブがやばいという話をしていた。

リンゴ・スターってみんなどこか下手って思ってるでしょ?とんでもない間違いですよ。彼の演奏を真剣に聴いてみるといいです。あのシンプルなドラムセットであのグルーブを出せる人って今生きている人ではいないですよ。

相変わらず声は蚊の鳴くような小ささだったけれど、それでもリンゴ・スターのドラミングを身振り手振りを交えながら熱く語っていた。ぼくはマスターの話がいちいち面白かったこともあってじっくりと聞いていた。その一方で彼のレコードに関する発言が心の中で小さく、だけど確かに波紋を立てていることが分かった。頭の片隅であることを考えていた。考えずにはいられなかった。


好きになるとは嫌いになることだ。それは対極にあるものではなく、同居するものだ。なにかを好きになるとき、それは同時に嫌いになることを意味する。村上春樹さんが愛するジャズを語るときに、スタン・ゲッツの音楽をして「神々しいまでに美しい」音楽と形容していたけれど、同時にチク・コリアの音楽がいかに退屈なものかということネチネチとこぼしていたことを思い出す。このノンスモーキング・ジャズバーのマスターが音楽を愛するときにCDを愛でてレコードを貶すように、対象に入り込むことは何かを拒絶することも意味する。それが好きになる、もしくは愛するということの正体なのかもしれない。

これはきっと人間関係にも当てはまるのかもしれない。誰かを好きになると、その人のちょっとした仕草や口癖が次第に目や耳につくようになる。それは時として受け入れ難いものとなっていく。そこから程度の差こそあれ"嫌い"という感情が生まれる。たとえその"嫌い"という感情が小さいものであったとしても、ゼロではないところに意味があるんじゃないかと思う。

なにかをプラスに思うとき、なにかをマイナスに思うことでバランスを守ろうとする。そうやって世界は回っているように見える。

なぜかと聞かれてもそれは分からない。だけれど、そうやって人が何かと、もしくは他の誰かと"同一化"することを防ぐように世の中は出来ているのだと思う。この地球で、もしくはこの宇宙で、一人一人が孤独であり続けるために。

そして孤独を守るからこそ、一人一人が生きるという意味があるのではないか。そう哲学してしまう。



マスターは終始ご機嫌だった。音楽の話をリミットをかけることなく話せる相手がいたことに喜んでいたのかもしれない。マスターとぼくの会話に花が咲いていることをにこやかに眺めていたその女性は「二人の夜を楽しんでください」と言ってぼくにウイスキーをご馳走してくれた。そして静かに支度をして「おやすみなさい」と言ってお店を後にした。

マスターとぼくは残った店で音楽の話を続けた。

今夜はもうお客さん来ないでしょうから。

と自らに言い聞かすように言ってマスターはお店の扉に鍵を閉め、スピーカーの音量をグッと上げた。そしてぼくらは二人でクリフォード・ブラウン & マックス・ローチの『A列車で行こう』をじっくりと聴いた。二人とも腕を組みながら少し目を瞑って。そしてもちろん盤はレコードではなく、CDで。




これでこの話はおしまいです。今日はそんなところですね。

それではどうも、お疲れたまねぎでした!

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