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自然神との対話の足跡⑳

賀志波比売神社:天照大御神の生誕の地

前回(自然神との対話の足跡⑲)記した気延山古墳群(阿波国)の気延山々頂に八倉比売命(=天照大御神)が葬られていると神社に伝わる古文書に残っている。
今回(2024/03/15)、天照大御神の生誕の地と言われている賀志波比売神社を確認してきた。神社創建の時期は(津峯神社の由緒によると)神亀元年(724年)で、延喜式神名帳に「阿波国那賀郡 賀志波比賣神社」は当初この地に鎮座し、後に津乃峰山上に遷座して津峯神社になったとされている。

賀志波比売神社にある石碑(阿南市見能林町柏野)

個人的に居住していた(1980年~1985年)当時、石碑や掲示は無かったと記憶しているので、新しい研究成果と思われる。
賀志波比売神社の北には八幡神社、小門(をど)神社があり、八幡神社には須佐之男命が祀られ、小門神社はみそぎ岩がある。天照大御神と須佐之男命は同時に誕生しているので、この地は、須佐之男命生誕の地とも言える。

八幡神社(阿南市見能林町東浦)

賀志波比売神社の祭事は八幡神社で行われており、八幡神社の一角に天照大御神がお祀りされていた。

八幡神社の祭事暦表
八幡神社内の天照大神の石柱

日本書紀・古事記の表記との関係

この3か月、個人的に賀志波比売神社が気になっていた理由は、古事記の「橘の小門」と「阿波の水門と速水名門」が、それぞれ学生時代の居住地(見能林)と生地(鳴門)である可能性を知ったからである。

・・・そのけがらわしいものをすすぎ洗おうと思って、出かけて阿波の水門と速水名門をごらんになった。ところがこの二つの海峡は、潮流がはなはだ速かった。それで橘の小門に帰られて払いすすぎをおこなった。

古事記現代語訳より

伊邪那岐命は、禊祓いをするため始めに、阿波の水門と速水名門に行ったが流れが速かったので、橘の小門に帰って禊ぎをしたという記述になっている。古事記にはっきりと「阿波の水門と速水名門」と書かれており、文面を素直に読めば、阿波の小鳴門海峡と鳴門海峡となる。一方、阿南市見能林町から橘町辺りも、昔は小島が点在する浅瀬で、小門神社の辺りは島と島に挟まれた小さな海峡だったと考えられる。伊邪那岐命は、小鳴門海峡と鳴門海峡の流れがあまりにも速かったので、橘の小さな海峡で禊祓いをしたと解釈できる。
一方で禊祓いをした場所は、古事記「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」のところ、日本書紀では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記されている。

日本書紀「筑紫日向小戸橘之檍原」

日本書紀にある檍(あおき)原は、青々と縁起のよい草木の茂る場所を表し、現在の阿南市見能林町柏野(賀志波比売神社所在地)並びに青木(阿南工業高等専門学校所在地)を抜けて打樋川が注ぐ橘(たちばな)湾一帯の平野と、地理的に合致しているように見受けられる。

昔の海峡(小戸)と見られる現在の打樋(うてび)川は見能林町柏野、青木を流れて橘湾に注ぐ

津峯神社を参拝

津乃峰山に登るのは3度目、この前に訪れたのは約40年前である。山頂からの橘湾の眺めから、「橘の小門」の光景が想像できる。

JR橘駅の裏側から入る裏参道は本格的な登山道で、一気に駆け上がると汗が滲んだ。津乃峰山の山頂にある津峯神社本社には賀志波比賣大神、大山祗大神が、末社には恵比須大神、大國主大神が祀られている。

津峯神社神紋(次の写真で提灯が燈している紋)は「八角御紋」で三方(神事において神様に御供えする神饌を載せる台のこと:食器)の形をしている。古来より食物を柏の葉に盛る風習があり、かしわは食器の総称とされ現在でも携帯する食器はかしわと呼ばれている。柏餅としても親しまれている通り、「柏の葉」は「三方」であり「八角御紋」と繋がっている。



人生は宝石箱をいっぱいに満たす時間で、平穏な日常は手を伸ばせばすぐに届く近くに、自分のすぐ隣にあると思っていた……