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肌と眼

なぜか夜に暇を持て余して、池袋ウエストゲートパークを一気見した余韻のまま、工場での作業をしながら、いろいろ考えた。

「惹き込まれる」ということについて

肌と眼に惹き込まれる。
肌については、きれいとかきれいじゃないとかじゃなく、
白いとか焼けてるとかじゃなくて、
薄い肌というものに惹かれる。

笑った時に、目尻にできる小さなシワ
頬と口との間にうまれる豊麗線
薄さがゆえに、年齢とは関係なく、そういう筋が入る。
そして、眉をひそませたときに入る眉間の縦筋もいい。

肌のすぐしたの血潮が映るかのように、めまぐるしく色を変えるような肌。
青く見える血管の筋が浮き出るところもあるが、決して白さが目立つ肌ではない。

その実、内側からなにかが燃えようとする時には、赤く染まるかのように、色が立つ。

エロティシズムに思いを馳せるなら、その肌にそって指をなぞる感覚を想起しているのかもしれない。
触れているのか、触れていないのか、わからないくらいの感覚の。

***

そして、同時に、やはりわたしの心を惹き込むのは眼である。
瞳と形容するにはまがまがしすぎるが、目と表現するには複雑すぎるもの。
ことばがなくても、見開かれる瞳孔の大きさで、心の動きが窺い知れ、動作がなくても視線のただよう先に何か指し示すものがあり。

澄んだまっすぐな眼の端には、よく見ればヒトの年輪のように積み重なってきた血筋がうっすらと見える。
その両のまなこで、真っ直ぐ視線を向けられると、息に詰まるくらいに、しめつけられる。

同時に、おどけた様子、ばかをする様子に対して、見下ろす角度で、さげすむように落とされる視線を感じた時にも、なぜがきゅっとしめつけられる。

わたしが好きになる女優さん、演者さん、絵画の中で描かれる女性、アニメや小説の登場人物は、決まって相場がこうだ。
麻生久美子も、松岡茉優も、酒井若菜も、ミュシャの描く女性も、戦場ヶ原さんも、黒髪の乙女も。


こうした感覚は、嗜好は、趣味は、一体どこからくるんだろう。
どのようにして形成されてきたのか。

振り返ってみれば、お付き合いした人や、結婚した嫁さんは、そういう要素を部分的に持ってはいれど、総合的にはほど遠い人たちばかり。
だからといって、なんの不満も文句もないのだけれど。

そして、自分の身の回りにいた、総合的にそういう人に対しては、どこか、一歩も二歩も引いて、遠くから、独り心の中で慕っているという構造だったことに気がつく。

好きだという感情とは少し違うもの。いやもしかしたら、好きだという感覚そのものが、別のものに塗り替えられているのかもしれない。

そういうことを考えた時に、一つ浮かび上がってきたのは、自分自身もそういう姿でありたい、と思う自分がいること。

ありていに言えば、女の子に生まれてみたかった。
そして、ガハラさんのようになってみたかった、なんていうとてもつまらないオチなのだけれど、
いまの自分にもやっぱりそういう感情があるんだなぁと、ユッケのタレを1000パックぐらい詰めてる中で考えた。

かといって、性自認はどちらかといえば男性だし、行為としての性でいえば完全に男性だし、恋愛対象も女性なのだけれど、
姿形、特に肌と眼、そしてそこに紐づく所作については、

「あこがれの女性」でありたいと、ふと潜在的に思ってる時がある。

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