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弱いオオカミ、強いヒツジ

一匹のオオカミがいた。

彼は、心の赴くままに、地平の先にある景色を見ようと、広大な草原を探索しつづけていた。雨風に打たれようと、別のいきものに襲われようと、空腹が続こうと、彼は一向に気にしなかった。

地平の先の景色をみることは、彼にとって生きる意味そのものでもあるから、多少の困難など、なんの障壁にもならなかった。
そのうち、 彼のもとに、気の合う仲間が集まり始めた。そのほとんどが、見た目は彼と同じようなオ オカミの姿をしているものたちだった。
オオカミの旅がおもしろそうだと思った仲間が、 一人、また一人と、自然に集まり始め、いつしか大きなキャラバンになっていた。

たくさんのいきものが集まると、それぞれ同士に関係が生まれてくる。彼とそれとの関係。そして、その関係に関係する関係そのもの。また、その関係に関係する関係。関係の鎖がどんどんと連なり、気づけば、一人の気ままな旅は、関係でがんじがらめになっていた。

関係そのものには”良い”も”悪い”もない。しかし、関係をきっかけに、キャラバンを去るものがいたり、仲違いするものもいたりする。 一度、そのキャラバンはほとんど全ての関係がリセットされた。
なにがどうなって、そうなったのか、もはや複雑に関係が入り組みすぎていて、今となってはそれぞれの立場からのポジショントークしか起こり得ない。けれど、事実、一つの終わりを迎えた。

そのさきには、どんな景色がひろがっているんだろう。

そしてまた、オオカミは気ままに歩き始めた。関係のリセットと、地平の先にある景色への渇望は、直接関係するものでもないから。

するとまた、キャラバンのように、同じようなオオカミやライオン、トラやチーターが集まり始めた。オオカミの旅のおもしろさに共感したり、オオカミと仲良しだったり、たまたま似た景色が見たかったりするいきものが集まり始めた。
旅に艱難辛苦はつきものだ。度々、いろいろな困難に見舞われる。キャラバンの規模を大きくしたり、自分達のキャンプを自らの手で整えたり、時に流行病に襲われたりもした。
けれども、彼らはそうした困難をも楽しみながら、旅そのものを楽しんでいった。

気づけばキャラバンが大きくなっていた。オオカミがもっともっと遠くへ旅をしようと心に誓っていたからかもしれない。あるいは、キャラバンに必要だと考えられる役割が多くなったからかもしれない。あるいは、理想のキャラバンとはかくあるべし、と心にその像を抱くいきものがいたからかもしれない。

どういう因果でそうなったかはさておき、とにかくキャラバンにはたくさんのいきものがいた。そして、多くのいきものが集まると、そこには必然的に関係が生じる。

関係の関係に関係するところ

ここに滑稽な逆転も生まれた。

オオカミのキャラバンには、ライオン、トラ、チーター、など肉食動物がほとんどで、 過酷な旅をも自ら乗り越えていこうとする星のもとにうまれた、そういう雰囲気や気分のあるいきものが多くいた。

と、オオカミは思い込んでいた。

あるいは、他の肉食動物も思い込んでいた。中でも、あるトラは強くそう信じていた。旅には艱難辛苦はつきもの。誰かが代わりに歩いてくれるのではなく、自分が歩かねば、目的地には辿り着かない。そして、辿り着きたいのは、誰かではなく、ほかならぬ自分自身だ。
彼は、そんなふうに考えながら、オオカミやライオン、チーターたちに対して、種類は違えど、見た目は違えど、 お互いに独立心を持った、旅の仲間としての気持ちを抱いていた。

けれど、そうした気持ちに翳りが見え始める。どうやら、よくよく観察してみると、そのキャラバンには、肉食動物以外のいきものもたくさんいるらしいことに気がついたのだ。

たとえば、自分自身がヒツジであることに気が付かず、オオカミになろうとしている者。 あるいは、自分自身がヤギであることがわかった上で、オオカミの魅力に惹きつけられた者。あるいは、自分自身が何者であるかという問いよりも、そもそもこのキャラバンがおもしろそうで集まってきた者。

気づけば、そこには、オオカミやトラだけでなく、ヒツジ やヤギ、ウマなどの草食動物もたくさんあつまるようになっていた。

わたしはなにものなのか

自分自身は何者なのか、という問い。

各々がその問いに向き合い、そして、あらゆるレッテルや、ラベルから解き放たれていれば、 オオカミもヒツジも共に生きられるのかもしれない。けれど、往々にして、なにか「騒ぎ」がそこでは起きてしまう。
そして、その「騒ぎ」というのは、大抵の場合「関係」によって生じるものであり、「関係」は意図して発生するものでなく、ただそこに「在る」だけで発生してしまうもの。ただ在るだけで生まれてしまう「関係」と、その「関係」から生じてしまうできごとから、わたしたちは逃れられない。

そもそも、それが「騒ぎ」なのかすら、定かではない。けれど、トラにとっては同じ構造が繰り返されているように見えた。
食糧不足、流行病、外敵、なにか緊急事態に陥ったとき、大抵その現場をなんとかしようと踏ん張るのは、肉食動物たちだった。
「わたしにはできない」
「頼りにしてる」
「役割分担」
「適材適所」
「個性を活かして」
「動けるものが動く」
そうした、一見、耳障りのいい言葉が飛び交い、結局のところ肉食動物がなんとか踏ん張る。そして、事態が済んでから、また平穏な日々が、当たり前のように、続いていく。

何百回と舞台に立ち続けた?ぎりぎりまで煮詰めていいものに仕上げた?非凡にことに打ち込んだ?
そんなことは関係ない。困難を打ち払うのは、肉食動物の仕事。役割分担。 適材適所。個性だから。 先刻承知していない役割分担論が振りかざされ、そして、多数の無言の同意によって、 それが文化になっていく。
あるいは、決まりごとやルールになることさえある。けれど、 決して、そうしたできごとは、悪意によって行われているのではない。むしろ逆で、善意 によって行われているのだ。

善意の暴力

ときに、こんなことも起きる。
肉食動物同士が了解しあってじゃれて噛み合っている のを見た草食動物が、そんなことをはしてはいけないと、善意で問いを立てる。
あるいは、 「そうした声すらあげられないもの」が「そうした声を汲み取るもの」によって「傾聴」 され、「弱いもの」が苦しんでいる場面が、たくさん見つけられ、決まりごとやルールが増えていく。

そして大抵の場合、肉食動物がいつもいつも槍玉にあげられる。公開の場で 罵倒されたり、はずかしめられたり、説教されたり、罰せられたりする。それは、まかり通ってしまうのだ。
きっと、彼らが「強いもの」だと思われているからだろう。
「強いもの」だと思われたものは、いくらでも叩いていい。なぜなら、彼らは強いし、ケ ロッとしているし、いつも大体ふてぶてしいし、そんなことを気にしないくらい芯があるから。

「弱いもの」は丁寧に扱われなければならない。なぜなら、彼らにも本当は願いがあるし、 声があるし、それらを抑圧しているなにかがある。
そしてそれは、大抵の場合「強いもの」が無自覚に発しているなにかなのだ。

トラの心は壊れて折れた。オオカミは体調を崩し、挫けた。

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