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梟訳今鏡(10)すべらぎの中 第二 鳥羽の御賀

鳥羽の御賀

さて、鳥羽天皇は院となって後も長く思いのままに世を治めていらっしゃいました。
その治世の内でも特に源雅定みなもとのまささだという者が左大将となられたあたりの頃にはいろいろあったんですよ。

当時この左大将の位をめぐってこの雅定様と実行さねゆき様が争っていたんです。しかし当時御在位中だった讃岐の天皇(崇徳)は左大将任命のご決断を渋っていらっしゃいました。

そんな頃、まだ東宮であられた近衛天皇の真魚始まなはじめがあった夜に、鳥羽院が急遽内裏へお渡りになられることになりまして、殿上人てんじょうびとたちはあわてて冠をかぶって装束を正して参内し、院のお車をお待ちしました。そして院は夜闇の中、朔平門さくへいもんの方にお車をお止めになられ、

鳥羽「権大納言雅定を左大将に任じることを確実に聞き入れていただくため、参上いたしました」

と天皇に申し上げました。
まあ、こういうわけでこの夜に雅定様は大将となられたわけですよ。

この騒動には様々な事情がございましてね。
まず実能さねよし様という方、この方は当時はまだそこそこ低い身分でいらっしゃったんですが、雅定様より先に上席の右大将に任じられていたんです。
そのため左大将の位に雅定様が入ると、実能様は再び雅定様より下位になってしまうので、そうはさせまいと思っていらっしゃいました。
それから大納言実行様は、自分は雅定様や実能様より上席だからということで、自分が左大将になることは当然だと主張していらっしゃいました。
そしてこの実能様、実行様のお二人は天皇の御伯父にあたられましたので、天皇はお二人を憚ってなかなか雅定様を左大将に任じることができなかったというわけなんです。

その一方、院は以前に雅定様より下位であった実能様を右大将に任じてしまわれたことを後悔され、今度こそは雅定様を大将に任じてやろうとご決心なさっていらしたんです。
しかし天皇が任命を渋るので、これまではこういった強行手段に出られることはなかったのですが、この度はかなり不機嫌になられたらしく、こうした直談判に及んだということだそうですよ。

こうして院が天皇をなんとか説得し、その後天皇が雅定を召して大将任命についてのお話をなさったりしている間、院はお車の中で「春の夜明けなむとす」や「十方仏土の中に」なんて漢詩を口ずさまれたり、仏様の御名を度々唱えたりなさっていらっしゃいましたとか。
それをその場で聞いていた人々はみんな感動して涙がこぼれそうになっていたみたいです。

翌年、御年40歳に満たないうちに鳥羽院はご出家されました。この年は院にとって厄年にあたっていらっしゃいまして、出家されるすこし前には御随身みずいじんなどを辞退されまして、行幸の際も具してはおられませんでした。
ですが白河の大炊御門おおいみかど(北殿)の向かいに御堂をお作りになられて、その供養へ向かわれる折には兵仗へいじょうという随身や内舎人を再び具していらっしゃったので、久しぶりに上皇らしく高貴に振る舞っておられるなあと思ったことでした。

それから引き続いて石清水八幡宮や賀茂神社への行幸があって、3月10日ですよ、鳥羽殿という場所でご剃髪なさいましたのは。ご出家されるほどのご病気なんて少しも患っておられなかったのにこうして思い立たれたこと、世の人々は涙が溢れてくるような思いで見ていましたよ。院の法名は空覚とか申し上げました。

さて院が50日間の仏事を行われていた時にはその辺を歩き回っている野良犬や、木を積んだ車をひく牛などに至るまで供養したり愛護したりされていらっしゃいました。
そうそう、御堂内の池では魚を、庭では雀、烏などを飼うなどしていらっしゃいましたかねぇ。山々や各寺にいる僧たちにも沐浴供養をさせたり、お布施に至っては特別な日でもないのに大変すばらしく整えられたりしていらしたんですよ。院にとってここまでの功徳を積まれることはもう日常茶飯事という風でいらっしゃいました。

院が人へ何かを賜られるというと大抵僧へのお布施であったんです。院御所周辺や、数々の御所にはなんとも言えないほどすばらしい綾錦、唐錦の織物や、唐絹、その他様々な宝物がところせましと置かれていたんですが、それもみんな僧たちへのお布施として賜られました。本当、どれだけの功徳を積まれたことになるんでしょうか。来世はきっとすてきにお生まれ変わられるんでしょうねぇ。

そういえばこの院の祖父にあたられる白河院はご自身の御所内をさっぱり片付けてしまわれていたんです。
ただ日毎に奉られる、宮廷用の紙に書かれた参内者の氏名表の書類ばかりは御厨子の中にとって置かれていたそうで、それ以外のものは御所内に見当たらないといった様子だったんですよ。
ましてや仕立てる予定のない布などを院の御前に出して置かれるはずもなくて、必要になった時には院が咳払いをして人を呼び、お側仕えの者たちをその時その時で召し使うなどなさっていらっしゃいました。
そうそう、それからですね、白河院は暁にお目覚めになられますので、お仕えする者たちは薄暗い中でも燈火を手に院のもとへ参られていたんだそうです。
ですから、白河院が日の高くなってからお目覚めになられる日には夜中のうちに女性のもとからお忍びで帰ってこられたんだなとみんな感づいたんだとか。

さて鳥羽院にお話を戻しましょう。仁平2年3月7には近衛天皇が院の御所へ行幸なさいまして、そこで鳥羽院の50歳の祝賀がございました。
院と同身長の仏像や、巻軸の玉飾りを磨き、金泥で書写された寿命経100巻がおくられ、さらには60人の僧が列席して仏様を称えるなどといったことも行われました。
また、この時の舞人たちは青い脇明けに柳桜の色目の下襲したがさねを着た近衛府の役人や、殿上人たちがつとめていました。その平胡簶ひらやなぐい矢筈やはずにつけられた水晶の飾りがきらきらと輝いて、とてもきれいでしたよ。

この祝宴の翌日も天皇は院御所に引き続き逗留なさいまして、父院に拝礼なさっていました。それからいろいろと品物を捧げられまして、それはもう、お庭にところせましと並べられるほどたくさんあったのだとか。
それから御所の池に浮かんだ舟の上では楽人たちが「春の調べ」という双調の曲をみごとに奏でながら水際にこぎ寄せてきて、今度はその舟から舞人が降りてきて唐楽、高麗楽こまがくの舞いに袖を振りました。
その後に青海波の舞いを左大臣頼長よりなが様のご子息でいらっしゃる隆長たかなが様と右大将実能様の御孫の少将実定さねさだ様が舞われ、宴の果てには左大将雅定様の養子雅仲まさなか様が童舞いとして胡飲酒こんじゅを舞いました。
この胡飲酒という舞いは古くから村上源氏のお家芸でございましてね、そういうわけですからやはり雅仲様の舞いは本当にみごとであったそうで、ご褒美の御衣をかずかり賜られたとか。
養父の雅定様は袖を振って拝舞し、お礼を言上され、さらに拝礼されたそうです。夕日の光に紅色の衣服が映えるその様、それはそれはすばらしかったみたいですよ。

そういえばこの雅仲様、実は童名を「くま君」と申しまして、前中納言師仲もろなか様のご子息でいらしたのを、雅定様が養子としたんだそうです。
この雅仲様の母君でいらっしゃる待賢門院様の侍女、美濃のつぼねという方は鳥羽院に寵愛された方で、皇子をお産みしたこともあったんだそうですよ。

さて、これほどまでに華やかな催しのある御世でございましたのに、中2年ほど置いてでしたかね、この近衛天皇は崩御されてしまわれたんです。
そのために院は非常に嘆かれて御所にこもってしまわれ、年が明けても中門の廊下などすべて閉ざしてしまって、誰も訪れないといった様子になっていました。
そうして嘆くうちに院も崩御してしまわれたんです。享年54歳でいらっしゃいました。

この院の御母君である贈皇太后宮苡子いし様は承徳2年11月に堀河院のもとへ参られて、康和5年1月にこの鳥羽院をお産みになり、それからすぐにお隠れになってしまわれました。なので、2月になってご葬送されたんですよ。