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歴史物語、特に四鏡について語るなどします。梟訳今鏡更新停止中

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    わかりやすく楽しんで読める現代語訳今鏡

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梟訳今鏡(序)

今鏡は「四鏡」として大鏡や増鏡と共に並び称される歴史物語です。1170年頃に成立したとされ、後一条天皇から高倉天皇までの13代、146年(序文には143年とある)の歴史を大鏡の構成を踏襲してえがいています。 その特徴としては芸能記事(特に和歌)を多く含んでいることが挙げられます。また、末法の世が到来し、絶望的な時代であったにも関わらず、全体的に前向きで、悲観的な記事がほとんど見られないところなども今鏡の個性と言えるでしょう。 そんな今鏡の魅力を伝えるため(ついでに私個人の

    • 梟訳今鏡(16)すべらぎの下 巻三 花園の匂ひ

      花園の匂ひ 二条天皇の御母君懿子様は、天皇をお産みしてからすぐお隠れになってしまわれました。ですから美福門院得子様がこの天皇を養育されたんです。 天皇は幼い頃、仁和寺にいらっしゃいまして、覚性法親王のお弟子となられていました。その時に倶舎の頌やそれに関連する巻物をたくさんお読みになられ、また倶舎論を説きあらわした仏書さえ受け継がれなどしていて、智恵深くいらしたんですよ。 そんな折、本院(後白河)が帝位につかれましたので、突如この方が当今の第一の皇子となったんです。さらに

      • 梟訳今鏡(15)すべらぎの下 巻三 をとめの姿、鄙の別れ

        をとめの姿 二条天皇は本院(後白河)の第一の皇子でいらっしゃいました。現在の新院(六条)の御父君にあたられます。 この天皇の御母君は左大臣有仁様のご養女である懿子様。この方の実父は大納言経実様です。 さて、この天皇は保元3年8月11日に御年16歳で帝位につかれました。同年12月に即位の儀式がありまして、翌年平治元年1月3日には法住寺のほうへ朝覲行幸がございました。 また、1月21日には内宴もありました。公卿7人、殿上人11人が漢詩を作ったと聞いています。その折の序文は式部

        • 梟訳今鏡(14)すべらぎの下 巻三 大内わたり、内宴

          大内わたり 遠くも近くも見たり聞いたりした過去のことをお話しましたが、今の世の中のことについては憚りも多いことですし、みなさんもよく知っておいででしょう。 ですが、まあお話の続きということで申すことにいたしましょうか。 現在の院(後白河)は鳥羽院の第四の皇子で、御母君は待賢門院璋子様です。お産まれは大治2年であったかと思います。 鳥羽院には他にもたくさんの皇子がいたわけですが、その中でこの方こそが帝位を譲られ、今日まで国を治められることになったんです。本当に並はずれたご幸

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        梟訳今鏡(序)

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          梟訳今鏡(13)すべらぎの下 巻三 虫の音

          虫の音 近衛天皇はご容姿もご性格も大変親しみやすくいらっしゃったのですが、後年に至って目が光を失われてしまったんです。 そういう運命だったのでしょうかね、どんなご祈祷も、どんなお薬も効果がなく、ついには年始の朝覲行幸もなさらないほどになってしまわれました。 摂政忠通様はこの天皇をこの上なく大切にお思いになられ、天皇もまた忠通様を並々ならず信頼されていらっしゃったんです。 それから、当時忠通様は弟君の頼長様に圧迫されて、藤氏長者などを取り上げられてしまっていたんですが、天皇

          梟訳今鏡(13)すべらぎの下 巻三 虫の音

          梟訳今鏡(12)すべらぎの下 巻三 男山

          男山 鳥羽天皇の御在位中に入内された璋子様はたくさんの皇子、皇女をお産みして、后の位を下りられてからも女院と申していらっしゃいました。 璋子様は白河院にご養女として非常に大切に育てられ、後見されていたわけですが、白河院の崩御後、宇治の后こと高陽院泰子様が鳥羽院のもとに参られたため、両女院がそれぞれに院のご寵愛を競い合うようなご様子となっていました。 ですが院はどちらに対してもそっけない態度でいらっしゃったんです。 ただ人目を忍んで参られた得子様ばかりを寵愛されていらっし

          梟訳今鏡(12)すべらぎの下 巻三 男山

          梟訳今鏡(11)すべらぎの中 巻二 春の調べ、八重の潮路

          春の調べ 仁和寺の女院(待賢門院)の所生でいらっしゃる第一の皇子(崇徳)は帝位を去られて後、「新院」と申し上げました。 後に讃岐に地にいらっしゃいましたので、讃岐の天皇とも申し上げているそうですね。 御母君である女院は璋子様と申しまして、大納言公実様の第三女であらせられます。 この璋子様は鳥羽院がまだご在位中でいらっしゃった頃に、白河院の御娘君という体で入内なさいました。 さて、讃岐の天皇は元永2年5年28日にお産まれになられまして、保安4年1月28日に帝位につかれまし

          梟訳今鏡(11)すべらぎの中 巻二 春の調べ、八重の潮路

          梟訳今鏡(10)すべらぎの中 第二 鳥羽の御賀

          鳥羽の御賀 さて、鳥羽天皇は院となって後も長く思いのままに世を治めていらっしゃいました。 その治世の内でも特に源雅定という者が左大将となられたあたりの頃にはいろいろあったんですよ。 当時この左大将の位をめぐってこの雅定様と実行様が争っていたんです。しかし当時御在位中だった讃岐の天皇(崇徳)は左大将任命のご決断を渋っていらっしゃいました。 そんな頃、まだ東宮であられた近衛天皇の真魚始めがあった夜に、鳥羽院が急遽内裏へお渡りになられることになりまして、殿上人たちはあわてて冠

          梟訳今鏡(10)すべらぎの中 第二 鳥羽の御賀

          梟訳今鏡(9)すべらぎの中 第二 白川の花の宴

          白川の花の宴 鳥羽天皇は先帝(堀河)の第一皇子でいらっしゃいます。御母君は贈皇太后宮苡子様と申し上げまして、大納言実季様の娘君でいらっしゃいました。 さて、この天皇は康和5年1月16日にお産まれになりました。そして8月17日に東宮となられ、嘉承2年7月19日に帝位につかれました。 それから16年間ほど世を治められまして、ご自分の第一皇子(崇徳)に譲位なさいました。 祖父にあたる白河院のご存命の間は、政治というともっぱら院の思うままでしたが、院が崩御されてからは、ただもう

          梟訳今鏡(9)すべらぎの中 第二 白川の花の宴

          梟訳今鏡(8)すべらぎの中 第二 たまづさ、所々の御寺

          たまづさ 堀河天皇は白河院の第二の皇子でいらっしゃいました。 御母君は贈太皇太后宮賢子様です。賢子様は関白左大臣師実様の養女でいらっしゃいまして、実父は右大臣源顕房様です。 この天皇は承暦3年2月10日にお産まれになり、応徳3年11月26日に御年8歳で帝位につかれました。非常に上品な方で、風流心も深くいらっしゃいましたよ。中でも笛をとても上手にお吹きになられましてねぇ。朝夕に管弦の催しを開かれておりました。 夜中に滝口の武者たちの名対面(点呼)がある際にも、「笛の調子をも

          梟訳今鏡(8)すべらぎの中 第二 たまづさ、所々の御寺

          梟訳今鏡(7) すべらぎの中 第二 紅葉の御狩り、釣せぬ浦々

          紅葉の御狩り 白河天皇は先帝後三条院の第一の皇子でいらっしゃいました。御母君は贈皇后宮茂子様と申します。 茂子様は権大納言能信様の御養女でいらっしゃいまして、後三条院が東宮でいらっしゃった頃から御息所として参られていた方なんですよ。 茂子様の実の御父君は閑院の左兵衛督兼中納言の公成様でして、能信様の妻である祉子様がこの公成様の妹君でいらっしゃったという縁で、茂子様は能信様に御養女として迎えられたわけなんです。 さて、この天皇は天喜元年6月20日にお産まれになり、延久元年

          梟訳今鏡(7) すべらぎの中 第二 紅葉の御狩り、釣せぬ浦々

          梟訳今鏡(6) すべらぎの中 第二 手向け、御法の師

          手向け この後三条天皇が世を治められてから、この国のことはみんな整備されたんです。 そのすばらしい善政の名残で、今に至るまで平和な世の中が続いているわけなんですよ。 この天皇は気丈なご性格でありながら、人情味に溢れているところもおありでいらっしゃいました。 石清水八幡宮での放生会に長官、参議、諸衛の次官たちが加えられたのもこの御世からのことですよ。 この時から仏教の方面でも本格的なことがたくさん始まったんです。 円宗寺で法華会、最勝会の時に講説する僧侶が置かれたり、延暦

          梟訳今鏡(6) すべらぎの中 第二 手向け、御法の師

          梟訳今鏡(5) すべらぎの上 第一 司召し

          司召し 次の天皇は後三条天皇といいます。この方がまだ親王であらせられた時にお父君にあたられる後朱雀天皇が、寛徳元年の冬よりご病気を患われたため、寛徳2年1月10日過ぎの頃に、当時の東宮(後冷泉)にご譲位なさると決められたんですけど、その際に空いた東宮位はどうするのかについてはなんの音沙汰もなかったんですよ。 そこで、頼通様の異母弟(明子所生)にあたられる大納言能信様が後朱雀天皇の御前に参られたんです。 能信「二の宮様は、どちらの僧にお弟子としておつけすればよいですか」

          梟訳今鏡(5) すべらぎの上 第一 司召し

          梟訳今鏡(4) すべらぎの上 第一 菊の宴、金の御法

          菊の宴 次の天皇は後冷泉天皇と申しました。 この方は先帝(御朱雀)の第一の皇子でいらっしゃいます。御母君は尚侍贈皇太后宮嬉子様と申します。 嬉子様は道長様の六女で、彰子様と同じ所生でいらっしゃいます。 さて、この天皇は万寿2年8月3日にお産まれになりました。 長暦元年7月2日にご元服、それからすぐに三品の位を授かられました。 そして同年8月17日に東宮位につかれ、寛徳2年1月16日に御年21歳で即位されました。 永承元年3月頃、伊勢神宮に奉仕する斎宮と賀茂神社に奉仕す

          梟訳今鏡(4) すべらぎの上 第一 菊の宴、金の御法

          梟訳今鏡(3.5)すべらぎの上 第一 望月

          望月 私の祖父にあたる世継も、天皇のことを話すついでに、その国母のことも話しておりましたから、私もそれに習って、後朱雀天皇の御母君彰子様について少し申しましょうかね。 彰子様は御年21、2歳の時に後一条院、後朱雀院を続けてお産みになられました。 土御門殿という場所で後一条院をお産みになった時の七夜目(実際は五夜目)の産養いの祝宴の際、御簾の内から出された杯に、私が昔お仕えしていた紫式部様がそれをまわしなさいと指示して詠み添えられたお歌がありまして、 めづらしき 光差し添

          梟訳今鏡(3.5)すべらぎの上 第一 望月

          梟訳今鏡(3) すべらぎの上 第一 初春、星合ひ

          初春 次の天皇は後朱雀天皇と申します。一条院の第三の皇子で、御母君は上東門院彰子様です。なので、先帝(後一条)と同腹のご兄弟でいらっしゃるんですよ。 この天皇は寛弘6年11月25日にお産まれになりました。 それから寛弘7年1月16日に親王宣下され、寛仁元年8月9日、御年9歳で東宮にお立ちになられました。 そして長元9年4月12日御年28歳で帝位につかれました。 さて、ご即位の儀式や大嘗会なども終わり、年も変わって長元10年。早くも1月7日に関白左大臣頼通様が女御として嫄

          梟訳今鏡(3) すべらぎの上 第一 初春、星合ひ