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Piano For Train (1) 旅の始まり~往路:京成小岩~上野~熱海

   [旅の始まり]


 ひんやりとした朝の独特の空気がマスク越しからでも頬に感じられた。
 夏が名残惜しそうにその姿を過去へと消していったのと入れ替わって、秋が自分の出番をはっきりと主張し始めていた。

 朝日が昇るのも少し遅くなったなと感じる早朝に、ぼくは自宅から最寄りの京成小岩駅のホームにいた。
本当は始発の電車に乗るつもりだったが、寝坊をしたので始発から二本遅い電車を待っていた。
 時刻は6時40分、これから約十時間をかけて普通電車、いわゆる鈍行列車を乗り継いで東京から京都へ向かう、その出発の場に立っていたのだ。

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 この旅に出るのにはいくつかの理由があった。

 きっかけはぼくのスケジュール調整のミスだった。

 ピアニストを生業にしているぼくは、京都へは演奏の仕事で頻繁に訪れていた。京都というのはぼくが学生時代を過ごした街であり、その時の縁が未だに繋がっていて、ちょこちょこと演奏の仕事をいただいていた。
 行く時にはなるべく複数の演奏仕事を何日かにわたって連続させるようにしていた。一度行ったら何日間か連続で演奏をして東京に帰ってくるというスケジュールだ。そうしないと採算が合わなかった。
 交通費、宿泊費、滞在費。そういったものを全て保障してしてくれる仕事も世の中にはある。ぼくたちの業界で言うところの「アゴアシマクラ」というやつだ。「アゴ」は食事代、「アシ」は交通費、「マクラ」は宿泊費だ。
 「じゃあアゴアシ込みで○万円でお願いします」や「ギャラは○万円です、それ以外にアゴアシマクラは別で保障します」などの言い方で使われる。そのような仕事はめちゃくちゃありがたいのだが、そうでないことも多々ある。全て自腹でどうにかしないといけないというパターンだ。その際には極力交通費や滞在費を安くしようと努力する。そうしないと下手をすると赤字になってしまう。演奏仕事を連続して入れるのもその為だ。そこまでしても大した稼ぎにはならないのだけれど。
 だがある時その演奏日程の確認を怠ってしまい、間違えて二週間にわたって演奏の予定を入れてしまった。連続させたつもりの複数の演奏仕事の片方が、スケジュールが一週間ずれていたのだ。
 ミスが発覚した時にはその二つの仕事のどちらかをキャンセルすることも一瞬頭をよぎった。その二つの演奏の仕事の間の期間には東京で仕事が入っており、必ず東京に戻らなくてはならず、ずっと関西に滞在することは不可能だったからだ。
 ということは二往復か、と考えた。
 まあ仕方ない、とすぐに諦めた。二往復しよう、と。
 どちらかをキャンセルするのはぼくの信用にも関わるし、何よりぼくはどちらも行って演奏したかった。その自分の気持ちを裏切ることは出来なかった。

 スケジュール調整のミスが、この旅の始まりだったのである。

 しかし二往復となると、通常の移動手段ではかなりの赤字を覚悟しなくてはならなかった。ぼくは京都へ行くときには「ぷらっとこだま」という新幹線の格安チケットを使うことが多い。これが片道ちょうど10000円だ。
こだまというのは各駅停車の新幹線だが、このこだま限定でなおかつ時間と座席も指定されているという制限があるのがこの「ぷらっとこだま」だ。通常の「ひかり」や「のぞみ」などで京都に行くと14000円ぐらいかかる。正確な値段がぱっとわからないのは滅多に乗らないからだ。数年に一度使うことがあるが、その時にはいつも「めちゃくちゃ高いな。こんな高級列車に乗れるなんてみんな富豪かよ」と思う。新幹線に乗っている人たちがみんなハイパーセレブに見える。
 また、「こだま」は各駅停車なので全ての新幹線の駅に停車するので東京~京都間は四時間弱かかるのだが、「のぞみ」なんかだとほとんど停まらないので二時間ちょっとで京都までついてしまう。東京を出ると品川、新横浜あたりでちまちま停まった後は一気に名古屋までワープする。名古屋のあとは京都、新大阪、といった主要駅にしか停まらない。跳ばされた豊橋とか岐阜羽島とかの気持ちにもなれよなとも思うが、のぞみはそんな小さな駅には決して停まらない。
 「私に停まってほしかったらもっとビッグな男になってから出直してきてちょうだい」
 そんな感じだ。

 名だたるものを追って、輝くものを追って、人は氷ばかりつかむ
 燕よ、高い空から教えてよ地上の星を
 燕よ、地上の星は今何処にあるのだろう

 と歌ったのは中島みゆき神(←大好き)であるが、そのような精神性に強く影響を受けているぼくはのぞみよりもこだまを選ぶ。跳ばされた三河安城にも米原にも人は住んでいるし、人がいれば人の数だけドラマがるし、そこで輝いている星があるのだ。

 まあ本当は安いから、という理由がほとんどなのだけれど。

 その「ぷらっとこだま」でも、二往復すると40000円はかかってしまう。そこにプラス宿泊費が加算される。とてもではないけれど痛すぎる出費だった。二往復の内の片方をいつもの「ぷらっとこだま」にするとしても、もう一往復は何とかして別のもっと安い交通手段にならないだろうかと考えた。

 最初に考えたのは高速バスだった。
 実はぼくはこの高速バスの移動が苦手だ。特に夜に走る高速バスの移動が苦手で、なぜかと言えば寝られないからだ。「夜の高速バスで寝られないなんてぼくも繊細で神経質なところがあるのかな」なんて思っていたが、理由は別のところにあった。夜のバスに乗って夜の高速道路を走っているとすごくわくわくしてしまうのだ。ちょっと興奮する、とまで言ってもいい。
なので、走っているバスのカーテンの中に頭をすっぽり入れて車窓の外の夜の高速道路を延々と見てしまう。そして興奮して寝られない。
 なので朝に目的地に着いた時にはかなりぐったりしていて使い物にならない。
 また、演奏の仕事が入っている時にはネットカフェなどに行って仮眠をとって体力を回復させなくてはならない。そのネットカフェの費用などもプラスして考えると実は割高になる。

 昼のバスという手段もあったが、昼のバスはたびたび渋滞に巻き込まれる。そうなると到着時刻に深刻な遅れが発生し、仕事の予定が入っている時にはそれが致命的な遅れとなる心配もあった。

 昼のバスは遅れるのが怖い。
 夜のバスは興奮する。
 こういった理由から高速バスでの移動は選択肢から外れた。


 次いで選択肢として浮上したのが「鈍行列車の旅」だった。
 鈍行列車の旅と言えば欠かせないものは「青春18きっぷ」である。
 青春18きっぷとは、JRの普通列車、快速列車に一日乗り放題のきっぷである。12050円で5回利用可能という神のようなきっぷなので、一日あたりに換算すると2410円となる。2410円で東京~京都間の片道を行けるとなると、おそらくこれよりも安い選択肢はない。
 唯一にして最大のデメリットは、10時間近くかかることだ。
 もう一度言おう。デメリットは「10時間かかること」だ。
 10時間電車に乗り続けることは、いかに「そういうこと」がわりと好きなぼくであっても苦行なのだ。10時間はきついよ、10時間は。

 だが、この青春18きっぷは今回の旅の選択肢にはなりえないことをぼくはわかっていた。このきっぷは利用できる期間が限られているのだ。
 春季は3月1日~4月10日、夏季は7月20日~9月10日、冬季は12月10日~1月10日だ。今回の旅は10月2日~3日の予定だったので、見事にその期間には当てはまらない。ちなみにこのきっぷを使わずに鈍行列車のみで行くことも可能だが、そうすると約9000円かかる。ぷらっとこだまと料金的にほとんど変わらなくなる。所要時間は6時間以上違うのに、だ。
 そんなバカな話があってはいけないのでこれも選択肢から外れるか、と思いながら他の情報を集めていたら、とんでもないものを発見した。

 「秋の乗り放題パス」である。

 本当にとんでもないお宝を発見してしまった。その情報を発見した時には興奮でスマホを持つ手が若干震えた。
 これは中身としては青春18きっぷとほとんど変わらない。JRの普通列車と快速列車が1日乗り放題というチケットである。
 青春18きっぷとの一番の相違点は、
 青春18きっぷが
 ・期間内の任意の5日間(連続していなくても良い)乗り放題で12050円
 なのに対して
 秋の乗り放題パスは
 ・期間内の連続した3日間(事前に指定する必要がある)乗り放題で7850円
 である。ちなみに青春18きっぷは自動改札を通れないが秋の乗り放題パスは自動改札を通れるという違いもある。また金額で比べてみた時に、青春18きっぷが一日あたりの料金で2410円、秋の乗り放題パスは約2616円、ちょっとだけ青春18きっぷの方が安い。

 肝心の秋の乗り放題パスの利用可能期間であるが、10月2日~10月24日、ドンピシャでぼくの旅の日程に重なった。この時点でぼくの中では「秋の乗り放題パス」でほぼ決定していた。
 10月2日~4日という「連続した3日間」で申し込み、10月2日と3日で東京~京都間を往復する。4日の分は使わなくても良いかと思っていたが、手帳を見たらピアノのレッスンの仕事で都心に出る用事が入っていた。ということは自宅~都心という往復1000円もかからない区間であるが、ここでも地味にこの秋の乗り放題パスが使える。
 何より東京~京都間が7850円で往復出来るのは、青春18きっぷ期間外だとすれば最安値だと判断した。


 そういう事情があって、ぼくは10月2日の朝、自宅の最寄りの京成小岩駅のホームに立っていた。
 ここから、旅が始まった。


[往路:京成小岩~上野~熱海]

 自宅の最寄りの京成小岩という駅は、名前の通り京成線の駅である。秋の乗り放題パスはあくまでも「JRの普通列車と快速列車が乗り放題」であるので、京成線は別料金ということになる。それでも自宅から京成小岩駅は非常に近いので、出発駅を京成小岩駅にすることに迷いはなかった。
 京成小岩駅から日暮里もしくは上野まで京成線で行って、そこでJRに乗り換える。京成線の料金が250円ほど上乗せでかかるが、それは快適さを買うための料金だと割り切れた。

 早朝の京成線は人もまばらだった。そうか、今日は土曜日だったか、とそこで気付いた。
 平日の早朝ならば仕事に行く人々で電車はそれなりに混雑しているのだが、土曜日は通勤の人が少ない。

 しかし、そんな中でも土曜日の早朝らしい光景に巡り会えた。
 主役はぼくの前に座っていたおっさんサラリーマンの二人組だった。ぼくよりも何歳か上に見える上司(多分)のおっさんとぼくと同い年かもしくは少し下に見える部下(多分)のおっさん。そしてそれを無言で眺める旅に出発したてのおっさんのぼく。ぼく(おっさん)、上司おっさん、部下おっさんでおっさんのトライアングルが出来ていた。ぼくは頭の中で「この三角形の中に入ってしまった人は一瞬でものすごい加齢臭を発する呪いにかかる」とか勝手に思っていたが、誰もその三角形の中には入らなかった。

 サラリーマンのおっさん二人組は、どうやら朝まで飲んでたみたいだった。それで朝イチの電車で帰る。多分金曜日の夜に「明日は仕事も休みだし、どんだけ飲んでも昼まで寝れば良いだろ!」みたいなノリで飲んでたんだと思う。
 ぼくの出発の日であったこの10月2日は確かにちょっと特別な記念碑的な日で、何が特別かと言うと、10月2日の二日前、9月30日まではコロナウィルス感染症拡大防止の為の緊急事態宣言が日本全国に発令されており、それが解除になったのが10月1日だった。だから10月1日の夜には多くの人たちが居酒屋に行っていたみたいだった。
 ただし「まともな居酒屋」は、その後にも引き続き要請されている時短要請に従って「酒類の提供は20時まで」や「営業自体も21時まで」などの制限を守っていたはずなので、サラリーマンのおっさん二人が朝まで飲んでいたのは十中八九そのような要請をガン無視しているタイプの居酒屋である。
 これに関してはぼく自身はどちらが良いとも悪いとも思っていない。色んな事情があって素直に時短要請に従う店もあればガン無視する店もある。どちらもあって良いと思うし、どちらかがどちらかを糾弾する必要はないと思っている。ただ、一つだけはっきりとしていることは、ぼくは「リスキーな場所には自分から積極的には行かない」ということだけだ。

 朝まで飲んできたおっさん二人は、早朝の電車内でなぜかお互いを讃え合っていた。
 上司おっさんが
 「いやー、今日は腹を割って話せてホントに良かったよ!」
 と言うと、部下おっさんが
 「本当に今日は色々とゆっくり話してくれてありがとうございます!」
 などと言う。
 二人ともが
 「これで我々はワンチーム、一心同体だな!」みたいな感じになっているのが気持ち悪くて「朝っぱらから何やってんだこのおっさんたちは」などと思ったが、よくよく考えるとこういうことはぼくにもよくあることだった。
 酒を飲むと感情の抑制がユルくなってしまうので、一緒に飲んでいる目の前の人が不愉快だった場合にはその不愉快さを我慢しきれずに外に出してしまう時があるし、その逆に一緒に飲んでいて楽しかったら「いやあ!今日はホンに酒がうまかばい!あんたは最高たい!がはははは!」などと言ってしまう時がある。まさに目の前のサラリーマンおっさんズと同じである。

 最近はそういう席で不愉快になりそうな時にはあまり酒が進まない内に帰るようにしている。その場から逃げる。これが一番良い。そういう時にモメても何も良いことはない。
 だが、その逆のサラリーマンおっさんズたちの「酒がウマイ!」のパターンの時はなかなかに困りものだ。実際そのような時はとても楽しいし、目の前の人間が愛しく思える。
 ぼくの場合は具体的には関さんという50歳を過ぎたおっさんがそのケースによく該当して、コロナ禍以前は定期的に関さんと一緒によく飲みに行っていたのだが、そのたびに「いやあ、酒がウマイ!関さん愛してる!」などと言い合っているわけで、これは確かに自分の事ながら大層気持ち悪いなあと、早朝の電車のサラリーマンおっさんズを見ながら思ったのである。

 サラリーマンおっさんズの内の部下おっさんが先に青砥駅で降りていった。上司おっさんと部下おっさんは別れ際にがっちりと握手をしていた。非常に典型的な上機嫌な酔っ払いらしい振る舞いだった。
 電車内に残った上司おっさんはどこか満足げに見えた。「良い酒の席だったな」と噛みしめているみたいだった。それにしても朝まで飲むなんておっさん若いな、やるな、とぼくは思っていた。

 そんな光景を傍目に見ながら、ぼくはちょこちょことスマホをいじって時刻表を調べていた。

 ぼくが最初に乗った京成線をJRに乗り換えるタイミングを見計らっていた。
 日暮里まで行ってそこから山手線or京浜東北線に乗り換えて東京まで、そこから東海道線に乗り換えて熱海方面まで、というのが一つの案だった。
 もう一つは、京成上野駅からJR上野駅までは徒歩で5~6分の距離が離れているのだが、そこを歩いてJR上野駅まで行きそこから上野東京ラインに乗ってしまうという方法。これだと運が良ければ一気に熱海までワープできる。
 日暮里か、上野か。
 更に調べていたら、上野案の場合はかなりタイトな乗り換えスケジュールだということがわかってきた。
 6:15に京成線が京成上野駅のホームに到着する。そしてその5分後の6:20にJR上野駅の上野東京ラインの乗り場から熱海行きの上野東京ラインが発車する。
 京成上野とJR上野間は徒歩5分強の距離である。ということは、かなりの猛ダッシュをカマしてぎりぎり間に合うかどうかという、かなりギャンブル性の高い乗り換えであった。
 ぼくはもちろん上野を選んだ。間に合わなかったらかなりの時間のロスになるが、成功すれば熱海までワープである。リスクを負わない者には何のリターンもありゃしねえんだよっ!と心の中で呟いて、京成上野駅からJR上野駅までダッシュした。
 幸いにして階段も通路も道が空いていた。京成上野とJR上野を繋ぐ唯一の信号も青信号で通過できた。  「これはいけるかも!」とぼくは思った。
 「秋の乗り放題パス」は自動改札をくぐれるので改札をくぐるのも一瞬だ。
 発車ホームへ滑り込む。ぼくの息はハアハアと切れていた。
 
 ダッシュの甲斐はあった。
 ぼくは6:20発の熱海行きの上野東京ラインに間に合った。

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 「やったぜ」と安堵した。安堵して席に座り、息を整えた。
 電車が走り始めてから先ほどまでのダッシュのせいでとても喉が乾いていることに気が付いた。何か水かお茶が猛烈に飲みたかったが、ぼくは何の飲み物も持っていなかった。このまま熱海までの約二時間、何の飲み物も無しで我慢しなくてはならないのか、と絶望しかけたその時だった。
 電車が東京駅に停車した。扉のすぐ向こうに飲み物の自動販売機があった。
 「あそこに買いに行けたら」と思ったが、買っている内に電車が発車してしまったらと思って二の足を踏んだ。
 その時車内アナウンスで「三分ほど停車します」の声が聞こえた。三分!なんたる僥倖だ。
 やったぜえええ!飲み物が買えるううう!
 ぼくは心の中で大きくガッツポーズをした。

 ゆっくりと自動販売機に近付いてお茶を購入した。席に戻って一口含むと染み渡った。
 もうこれで大丈夫だと思った。少し気が緩んだのか、ぼくはうとうとと浅い眠りについてしまった。

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(第二話に続く)

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