ハーバード見聞録(27)

「ハーバード見聞録」のいわれ
 本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。
 本稿は、ハーバード滞在中に、妻と二人で運転免許を取得するまでの涙ぐましい苦労話を綴ったものです。



ドライバーズ・ライセンス(7月18日の稿)

「ダメだったー」

エズラ・ボーゲル邸の屋根裏部屋にある我が寓居への急階段を登って来る足音が聞こえたので、吉報を待っていた私への家内のこの第一声に、全く「意外」の思いだった。その日、8月24日は家内の運転免許の路上試験の日だった。

実は、路上試験に至るまでが実に長い茨の道だった。「アメリカは車社会」と言うので、山田洋行に御願いをして中古車を手に入れた。某保険会社の日系人社員T氏の「福山さんご夫妻が持って来られた国際免許証は米国の州によっては3ヶ月しか認められていません。また、もし米国滞在が2年に及ぶ場合は、国際免許証はいずれにしても1年で無効となり、車両所有の為の更新手続き(車検を含む)も出来なくなるので、是非マサチューセッツ州の免許証を取得してください。身分証明書代わりにもなりますから」というアドバイスで、我々夫婦は車両免許試験を受けることを決心した。

車両免許の受験申請の為には先ず「社会保障手当番号(Social Security Number)」を最寄の社会保障庁事務所で入手しなければならなかった。家内とパソコンでアクセスして、書類を作成し、同事務所に行ったら、私のほうはスムーズに受理されたが、家内には出せないとのことだった。家内と、社会保障庁事務所職員のやり取りはこんなものだった。

「貴女の身分ではソーシャルセキュリティー番号はもらえません」

「エッ、どうしてですか」

「ご主人はJ-1ビザ(教育・研究)だが、貴女はその配偶者で、J-2ビザだからだめなのです。その代わり『ソーシャルセキュリティー番号を出せないという拒否の証明書(Denial letter)』を出してあげましょう。これで運転免許申請手続きが出来ますよ。」
 
これを聞いてようやく一安心。因みに、日本からの留学生やアメリカの支店などへ転勤するビジネスマンなどの場合も本人以外(家族などに対して)にはソーシャルセキュリティー番号は発給されないそうだ。

社会保障手当番号を申請するために同事務所に来た人々は、様々な人種・人品の集まりだった。アメリカへの移民や低所得者層と見られる人々を間近に見ることができる良い機会だった。同事務所の中では50歳近い、イカツイ黒人の警官が睨みを利かしていた。不法滞在・入国者、犯罪者が来る可能性があるからだろうか。「9.11」のテロリスト達もソーシャルセキュリティー番号をもらっていたに違いない。

次はいよいよ運転免許受験の申請手続きだった。家内と地図を見ながら「ドクターカズ」と呼ばれる日本人向けのホームページから仕入れた情報を頼りに、真夏の午後の炎暑の中、チャールス河畔の小道を歩き続けた。その直前まで虫歯治療を受け、強い麻酔を打たれ、口腔全体に痺れが残る中の強行軍だった。

バスにでも乗ればいいものを、未だバスについての情報を掌握していなかった。1時間ほどの家内と二人だけの強行軍の末、ウォータータウンの巨大なショッピングモールの一角に「Registry of Motor Vehicle」と呼ばれる免許申請・登録事務所を見付けた。

長蛇の列に並んで、ようやく整理券を手に入れた。十数か所の受付カウンターに電光掲示板があり、逐次整理番号と行き先のカウンター番号が、聞き取りにくい英語でアナウンスされる。

私の場合は何の問題も無く手続きが終わり、仮免許が交付されたが、家内は壁に突き当たってしまった。「住所を証明するものが無い」という理由だった。

そこで帰宅後、ハーバード大学アジアセンターに行き職員のホルヘ氏にお願いして、ハーバード大学の「VERITAS(真理)」という文字の入った校章のレターヘッド付のペーパーに、「この者は、当大学アジアセンター上級客員研究員福山隆の妻にして、住所を同じくしている」という趣旨の文章にホルヘ氏のサイン入りの証明書を作ってもらった。

二回目の挑戦だ。受付の肥った黒人女性は、全く不親切であった。殆ど説明も無く「ダメ、ダメ」の一点張り。英文ペーパーを家内に渡し、関連の記述を乱暴にボールペンで丸を付して、「ここに書いてあるのを持ってきなさい」と言うのみであった。「ああ、免許取得の道のりは遠い」と家内と嘆息したものだった。

再び炎天下の道を言葉も少なく帰って行った。聞くところによると、アメリカの官公庁の特に黒人はアジア人などの黄色人種に対して「人種差別」の感情を持っており、極めて不親切だと言う。

家内の苦労は続いたが、めげなかった。既にアメリカで一連の不愉快な思いを経験されているある高島副領事夫人のお力添えで、わざわざ家内名義の銀行口座を開設し、その銀行の小切手帳(住所・氏名付)を入手することにした。ところが自宅に送られてきた小切手帳にはなんと福山真理子を「SUKUYAMA NARIKO」と誤記しているではないか。「もういい加減にしてくれ」と言う思いだった。

名前を修正してもらい、何度目かの挑戦で家内はやっと受験のための手続きを完了し、仮免許をもらい8月24日に路上試験を受けるところまで漕ぎ付ける事が出来たのだった。

家内の運転技量は十分だった。国内はもとより、あの交通マナーが極めて悪い韓国のソウルでさえも3年間無事故で通したのだった。それなのに「不合格」だったとは!

「何でお前が落ちたんだ」

「だって、運転させてくれないんだもん」

家内と、スポンサー(運転免許の路上試験の際、車に同乗する「後見人」)の高島夫人の話を総合すると次のようなことだったらしい。

路上試験に臨んだ家内の車は二台目につけた。一台目は車両整備の不備からか、路上試験は行われずドロップアウト、直ちに家内の番が回ってきた。いきなり35歳前後の長身の白人の婦人警官(マッカーシーという名札だったそうだ)に、「ハンドシグナル(手信号)」と命じられ、家内は「ライト、レフト、ストップ」と呼称しながら手信号を実演した。

白人の婦警から、ハンドシグナルに続き、「レフトシグナル オン、アンド ライトシグナル」と命ぜられたが、初めてアメリカで路上試験を受ける者にとって、この婦警が繰り出す命令口調の専門用語はとても難解であったという。

婦警の言っている言葉が解かり辛いので、家内は「I can’t understand your English. Please say it again.」と言ったそうだ。すると婦警は、更に威圧的に早口の英語をまくしたてたそうだ。困り果てた家内は、「お願いですから、スポンサーに通訳をさせてもらえませんか」と頼んだ途端、もの凄い剣幕で、「ここはアメリカだよ。英語が分からなくて運転免許を取ろうとは何事だ。私は試験官として言葉も解からない人の隣に乗るのだから、とても神経過敏になっているんだよ。一々通訳を通して運転の指示をしていたら私自身の安全が守られないじゃないか」とまくし立てたそうだ。

理屈はその通りだが、「物の言い方」が尋常ではなかった。次がさらに問題だった。婦警は、「ターン・オン・ザ・……」と言ったそうだが、もう、その時点では、家内は気が動転してしまって婦警の命令口調の指示を聞き取れなくなっていた。見かねたT夫人が、「エンジンをかけて、左にシグナルを出し、発進するようにって言ってるわよ」とアドバイスした。

すると今度はスポンサーに矛先を向け、「私が出した指示だけを通訳するように!」と言い捨てて、家内と高島夫人を黙殺して、後続の受験者の車の方に行ってしまったそうだ。

その時点で、家内は「もう駄目だ!」と諦めたそうだ。しかし、しばらくしたら、その婦警はまた家内の車の位置に戻って来たという。ドアを開けて助手席に乗り込むやいなや、

「エンジンをかけて、発車・・・・・」と言われたそうだが、家内はもう受けさせてもらえないのだと思い込んでいたせいで、直ぐには反応ができなかった。すると、「試験中止」と叫んで、下車してしまった。

呆然とする家内に代わってスポンサーの高島夫人が、「もう一度チャンスをください!」と懸命に訴えたが、矢張、「これでは、私の安全が守られないから駄目だ。」と取り付く島もなく、仮免許証に「Difficulty understanding. Difficulty with translation. 」と書きなぐって、書類を家内に投げるように渡し、次の受験者の方に行ってしまったとのことだった。

後日判明したことだが、その酷い婦人警官の犠牲者は家内だけではなかった。日本人学校の先生の奥様も家内同様に苛められ、同乗していたスポンサーの方が、余りの酷さに精神的ショックを受け、寝込んでしまわれたそうだ。その夫人は運悪く再試験の時もその婦人警官に当ったそうだ。そして、今度は運転途中の路上で試験中止を宣告し、自分は一方的に下車し、その夫人を車ごと路上に放置したそうだ。

後から書くが、私がその後運良く合格した後に、私を担当した婦人警官に家内や日本人学校の先生の奥様に対する酷い仕打ちを打ち明けたところ、

「我々もその婦人警官の言動は問題だと思っています。我々警官は市民に対しそのような非礼な態度を取ることは許されません。市民に対する奉仕が我々の誇りです。あの婦人警官は札付きの人物(最近離婚)なのですが、市民からの訴えが無いのでそのまま放置されているのです。出来れば警察当局に抗議のレターを出していただけないでしょうか」と本音を漏らしてくれた。

このような経緯から、私は、路上試験の時、件の意地悪婦警から「合格」を勝ち取り、家内の仇を取ってやろう思っては見たものの、全く自信が無かった。英語は少々私のほうがましかもしれないが、運転技術はお話にならない程下手だった。

私が運転免許を取ったのは、昭和47年(1972年)長崎県大村市の陸上自衛隊第16普通科連隊の小隊長勤務の頃だったと思う。竹松という地名の一角にあった自衛隊専用の教習所で練習し、すぐ近くにある公安委員会指定の試験場で試験を受け、「大型」免許を取得した。

すぐにでも車に乗りたかったが、当時乗用車は高嶺の花で、母親に仕送りまでしなければならない私の手の届く所にはなかった。乗用車を手に入れたのは、それから3年も経った、昭和50年(1975年)だった。当時、大村から富士山の麓にある普通科教導連隊に転勤していた。義父が新車を買ったため「お下がり」の中古車をもらった。

夏休みのある日、義父母が東名高速経由でその中古車を官舎に届けてくれた。私は早速乗ってみることにした。家内と長男(1歳)それに義母までもが乗せてくれと言う。官舎のある須走(すばしり)からヘアピンカーブの急坂で知られる篭坂峠を越えて山中湖にドライブに出かけた。

自衛隊のトラックで教習を受けたため、乗用車に乗るのは初めてで、何だか勝手が違っていた。山中湖までの行きは良かったが、帰りは怖かった。山中湖を出て、篭坂峠方向に登るところで、信号に引っかかってしまった。

「赤」で一旦停止して、「青」で再発進しようとしたが動かない。これは教習所で習った「坂発進」というテクニックでやるのだが、大型車で習った坂発進の技術は乗用車にはフィットしにくい上に、3年近くのブランクがあったためか、上手くいかなかった。後方からクラクションを鳴らされたが、焦れば焦るほど上手くいかなかった。やっとのことで、大汗を掻きつつようやく発進できた。

篭坂峠を越えたら今度はヘアピンカーブの急な下りだった。谷底に吸い込まれるような錯覚をおぼえ、汗がスーッと引いた。私は少々高所恐怖症なのだ。止まる訳にはいかない。必死にハンドルとブレーキを駆使し、ヘアピンカーブを下った。

車の中では、それとは知らぬ義母と長男を抱いた妻が車窓から箱根の絶景を眺めながら楽しそうに話し込んでいた。今思うと全く無茶なことをしたものである。

その後2年間ほどその中古車に乗ったが、私は元来余り運転が好きでも得意でもなかった。東京の幹部学校に入校するのその車を機に義弟に譲り、運転を辞めてしまった。爾来今日に至っている。

だから「路上試験で家内を苛めた婦警から『合格』を勝ち取ることにより仇を討ってやる」とは思って見たものの、全く自信はなかった。

試験当日は、家内の運転する車でウォータータウンの免許登録事務所に指定された時刻(9時)には到着した。マサチューセッツ州の規則に基づきスポンサー(後見人)として家内と同じく、私も高島夫人に御願いし、現地で落ち合った。

30分ほど待っていると、小柄で少し太めの白人婦警(30歳代前半?)が現れた。「あの人は奥様が苛められた意地悪婦警ではないですよ。あの人だったらきっと大丈夫」と高島夫人が耳打ちしてくれた。

受付室で順次仮免許証、関係書類などを提出し、所定の手続きを行なうことになった。私の番が来たので、入り口で「ハロー」と挨拶し、高島夫人と共に入室した。

婦警は一目見ただけで、心根のよさそうな人柄に見えた。書類を机の上に並べたら、「スポンサーの免許証も見せてください」と言うので、高島夫人がすぐに免許証を差し出した。すると、婦警は「これじゃだめですよ」という。「エッ!」、私は一瞬、頭が真っ白になりかけた。

「前回もこれでスポンサーをしたが、全く問題なかったですよ。」と高島夫人が抗議した。

すると、婦警は、「州の規定では、『スポンサーはマサチューセッツ州若しくは他の州の免許証を持っている者』となっていますが、あなたの免許証は国務省が外交官に発行したもので、スポンサーにはなりえません」

「国務省は、全州を代表するものであり、この免許証も州の免許証と同じ性格のものと拡大解釈できないでしょうか」と高島夫人は粘った。私も瞬時に知恵を絞り必死に食い下がった。「こんなことで引き下がってなるものか」と下手な英語で粘りに粘って、「一緒に受験する他の人のスポンサーをお借りする訳には行かないでしょうか」と食い下がった。

「スポンサーは貴方の『友人』と言う規定があります」

「今すぐ後ろの車のスポンサーと今すぐ『友人』になれば良いではないか」

「ダメですね」

「私の家内も同じ仮免許ですが、家内にスポンサーは頼めませんか」

「仮免許ではだめです。そこまで言うのであれば、私の上司が向こうにいるので確認してくるので、ちょっと待っていてください」

婦警はそう言って10メートルほど離れたカウンターに座っている大柄の黒人男性警官に相談に行った。二人のジェスチャーを見ているとどうも分が悪そうだった。婦警は部屋に帰ってくると気の毒そうに「ヤッパリ上司もダメだそうです」と言った。

私は、そんなことで引き下がらなかった。「何とかならないでしょうか」となおも食い下がった。すると、婦警は「あなたが直接上司に頼んでみたら」と言うので 、高島夫人と上司の黒人警官のところに直談判に行った。婦警を口説いた理屈で攻めたが無理だった。

高島夫人はなおも、「日本総領事館に報告するので、不可能な理由の根拠を文書で下さい」となおも食い下がった。だが、黒人警官は「とにかくダメだ」の一点張りで、文書を示そうとはしなかった。なおも食い下がると、「そんなに言うのなら、近くに州警察の事務所があるのでそこに行って確認してくれ」と逃げの手を打った。

高島夫人は州警察事務所に私を車で連れて行ってくださるつもりだった。しかし私は、とっさに状況判断し、もう一度婦警と一対一で話してみることにした。州警察事務所に行ってもまず勝ち目は無いだろうし、これから行われようとしている試験時間にも間に合わないと思った。

婦警のいる受付室に入ると私は無意識のうちにドアを閉めてしまった。これで、室外からは見えいない。婦警と一対一で話し合える環境が出来た。。私は落ち着いて、しっかりと彼女の目を見つめた。善良の心が宿る青い澄んだ目だった。そこで始めて彼女の胸に付いている金属板の名札が目に入った。「WHITE」と書かれている。

私は、ホワイト婦警の目を直視して心を込めて訴えた。

「ホワイトさん、貴女の上司もダメでした。私は、今ハーバード大学の研究員でアメリカに来ています。日本とアメリカの安全保障の為に役に立とうと思っています。もう理屈は良いから、私を助けてください。ホワイトさん、私の『守護の天使(Guardian angel)』なって頂けませんか」

「………」

一瞬の沈黙が流れた。そして、奇跡が起こったのだ。目の前のホワイトさんが現実に私のGuardian angelになってくれたのだ。

「わかりました。(試験場の略図を示しながら)ここにパトカーが止まっていて、受験者の車が何台か並んでいるので、そこにあなたの車も持って行って一番後ろに止めて待っていてください」

この言葉を聴いた時、私は涙が出るほど感動した。部屋を出て、半信半疑の高島夫人と車に乗って指定された車列の最後尾に車を並べた。車列の先頭の車は、父子のカップルで、父が息子のスポンサーだった。ホワイト婦警が父子の車の助手席に乗って路上試験がスタートした。

ショッピングモールの広場から公道に出ると、右折した。我々夫妻が「ドクターカズ」のホームページから得た情報で山を掛けた二つのコース中には含まれていたが、残念ながら実際に走行したことは無かった。

しばらくすると父子の車が帰って来て広場の反対側に止まった。ホワイト婦警に続いて、先頭車のスポンサー役である父親が下車して、二人揃って私の車に向かって歩いて来た。ホワイト婦警が私を手招きして、下車して来るように促した。

「ミスター・福山、この方はステファン・シンドラーさんです。私のほうから御願いして、急遽あなたのスポンサーになって頂くことにしました」

「ホワイトさんありがとうございます」

「シンドラーさん、福山です。ご厚意に感謝します」

私はホワイト婦警の好意に心から感謝すると共に、シンドラーさんの手をしっかりと握り締めた。一見して、シンドラーさんは心の温かい人であることが分かった。シンドラーさんもGuardian angelだったのだ。

ホワイト婦警は規則を度外視した「応用動作」で私のために即席のスポンサーを御願いしてくれたのだった。また、試験が終了したシンドラーさんの「待ち時間」を節約する為に、車列の一番最後だった私の受験順番を二番目に繰り上げる工夫までしてくれたのだった。

シンドラーさんが私の後部座席に乗り込むと、ホワイト婦警は私の車の機能点検を始めた。

ホワイト婦警が「警笛を鳴らしてください」と指示した。「はい」とは答えたものの、30年近くも、車を運転したことが無かったので、警笛の位置がわからなかった。「しまった!何処だったかな」――と焦るばかりだった。

ハンドル付近の突起物をあちこち押していたら「見事」警笛が「ブゥー」と鳴った。これで一安心。続いて方向指示器の作動を確かめ、ブレーキを点検し、異常が無いことが分かると、ホワイト婦警は私の隣に乗り込んできた。改めて御礼を述べた。

「ホワイトさん有難うございます」

ホワイトさんが笑った。いよいよ路上試験の開始である。

「エンジンをスタートして下さい」

家内が聞き取れなくて苛められた場面だ。

「もう既にエンジンは始動しています」と答えると、ホワイト婦警はまた笑った。

「スタート」

「オーケイ」

とは言ったものの、車列の最後尾に付け、前の車が全部出た後でスタートするものと思い、前の車との間隔を詰め過ぎていた。一旦後退して発進すれば問題なかったのだが、気分が高揚していることもあり「エーイままよ」とばかりにウインカーを左に上げ、前方車のお尻すれすれにハンドルを左に切った。神のご加護か?無事に出られた。

50メートルほど走ったら、公道に出る前に止められた。

「何か拙いのですか」

「いやシンドラーさんの息子さんが登録事務所に向かい遠回りに歩いているので近道を教えてあげます」

ホワイト府警はこう言って、シンドラーさんの息子に声をかけ、近道を教えた。

試験が再開された。公道に出る前に赤信号、落ち着いて止まった。試験していると言うよりもホワイトさんとシンドラーさんの3人でドライブしている気分になり、信号待ちの間おしゃべりをした。

公道に出て200メートルくらい走ったら右折を命じられた。簡単だ。道路は広い。道路と言うよりも空き地のような数メートルの幅の道路だった。150メートルくらい進んだ所で、ホワイトさんが「ストップ、バックアップ」と言ったように聞こえた。

私は、車の操縦に関し「バックアップ」という英語はもちろん聞いたことがなかった。「何と言う意味なのだろう」と、瞬時に頭を巡らせた。直訳すれば「後援、支援」と言う意味だ。考えている暇などない。一瞬迷ったが、「後退するしかないじゃないか」と意を決し、後退を開始した。後で辞書を調べて見たら、「backup:車の後退」とあり正解だった。問題は、私がホワイトさんの「バックアップ」という意味不明の指示に面食らって、ただギアをバックに入れて後退させたことだった。

家内の試験官だった件の「人種差別婦警」だったら、直ちに「不合格!」を宣告されるところだった。私のGuardian angelであるホワイトさんは、にこにこ笑いながら「バックアップの際は、必ず後方と左右をミラーで確認してください」と、優しく指導してくれた。私は「サンキュー、サンキュー」と冷や汗をかきながらも応じた。車を後退させることに自信は無かったが、なんとか真っ直ぐ退がれたようだ。

後退が終わると、「スリーポイントターンで方向を変えてください」との指示があった。ポスリーイントターンとは、Uターンできないほどの広さの道路で反転する方法で、①一度ハンドルを左に向けて切り、横向き(道路を塞ぐ格好)になり、②その後ハンドルを右に切りバックし右後ろへ後退してから、③前進しターンを完了させる方法である。

私はホワイトさんに対して甘え癖がついたようで、「もう少し、前に出れば後退しやすい広場があるので、そこまで進めても良いですか」と厚かましくもお願いした。さすがに、ホワイトさんもこの甘えは許してくれず、「いや、ここでやってください」と言った。

私は、「オーケイ」と応じスリーポイントターン挑戦した。実は、試験直前に、家内からスリーポイントターンを2~3回実地に習っていた。「山」が当たったのだ。だから「スリーポイントターン」は難なく出来た。嬉しかった。

これで、試験科目は全部クリアーしたのだ。ホワイトさんも満足げに「さあ、前進。公道へ出て帰りましょう」と言ってくれた。私も「スリーポイントターン」が出来た嬉しさに、安心してアクセルを踏んだ。

すると、ホワイトさんが「ミスター福山、左レーンを走っていますよ」とあきれ気味に囁いた。本来なら直ちに「試験中止」と聞いていた最悪のシナリオである。私は平静を装い、

「エクスキューズミー。ついつい、日本の習慣が出てしまいました。適切なご指導有難うございます」

と、笑って誤魔化した。「誤魔化した」と言うよりは、本気でそう思った。

「これまで、英国、オーストラリアからの受験生に続いて、『逆走』したのはあなたで3人目ですよ」と、ホワイトさんも笑った。

公道を左折してショッピングモール広場に無事帰還した。指定された場所に止めると、「合格です」と、ホワイトさんはまた笑った。「ただし、反対車線だけは走らないように。『キープライト、キープライト』ですよ」ホワイトさんは温顔で言った。

「今日、私に最高のプレゼントを戴いたことに心から感謝します」と、しっかりと彼女の手を握り締めた。まさに彼女は私の苦境を救い私のGuardian angelになってくれたのだった。

その後家内は、例の「人種差別婦警」を避けるため試験場を変えて挑戦したが、なんと運の悪いことにブレーキが点灯しなかったために「整備不良」という理由で受験させてもらえなかった。

9月26日3度目の挑戦でようやく合格。帰宅した家内は、「嬉しいというより、登らなければならない山をやっと越えたという感じ。疲労感に似た、何とも複雑な気持ち。免許取得までの間に沢山の方々にお世話になり、新しい人間関係が作れたことのほうが嬉しい」と心境を語った。

私も、この間苦労はあったものの、運転免許の受験はアメリカ社会の一面について身をもって体験・理解する好機であったと思っている。

特に気付いたことは、社会保障長事務所職員、警察官、空港職員、高速道路料金徴収員及び郵政職員などの公務員に準ずる部門のサービス・態度は極めて悪いということだ。その点「チップ」を貰える職域の従業員のサービスは比較的良好である。「チップ社会」の副作用とも言うべき現象とも思える。このようなアメリカ人の行動パターンもプラグマティズムの範疇に入るのだろうか。

それにしても、日本社会のサービスが如何に行き届いたものであるか(時にはやりすぎと思えることも)改めて思い知った。

アメリカ社会のこのようなサービスの有様を見るにつけ、小泉総理の郵政を含む行政改革は是非推進してもらいたいと思う。


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