ハーバード見聞録(67)

「ハーバード見聞録」のいわれ
「ハーバード見聞録」は自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。
「マハンの海軍戦略」についての論考を9回に分けて紹介する。


「マハンの海軍戦略」第6回:

マハンの海軍戦略を採用しアメリカの国策にした男――セオドア・ルーズベルト大統領(4/23)

マハンの海軍戦略がいくらアメリカにとって、価値あるものであっても、国策として採用されなければ、「単なる戦略理論」として終わり、その著書も海軍大学校などの図書館の中で、古ぼけた本として眠ってしまうところだった。

マハンの海軍戦略を理解し、新興国アメリカの国策・戦略として最適であると見抜くだけの慧眼を有し、これを国策に採用・実行した男――それが第26代大統領のセオドア・ルーズベルトである。

マハンの海軍戦略の価値を認め、それをアメリカに基本戦略に据えた男、セオドア・ルーズベルトの人となりについて、インターネット上でで面白い記事を見つけたので以下これを紹介したい

セオドア・ルーズベルトは1858(安政5)年に生れたが、どちらかと言えば虚弱な少年で、痩せて喘息持ちである上に近眼でもあった。ニューヨーク有数の名家(富豪)の主たる父親は心配して自邸の二階に体育場を設け、姉・弟達や遊び仲間と長男のセオドアはボクシングやレスリングに励み、 祖父の屋敷に出掛けては乗馬や射撃に精を出した。

10歳と14歳の時には長期のヨーロッパ旅行も体験した。公立の学校には行かず 、家庭教師による教育を経てハーバード大学に入学、ハーバードではボクシングに熱中したという。

卒業した年(1880年)の秋19歳のアリス・リーと結婚、翌年(23歳)にはニューヨーク州下院議員に当選した。州議会の置かれているニューヨーク州の州都はニューヨーク市から約260キロ離れたアルバニーであり、1884年2月、アルバニーに居るルーズベルトのもとに妻アリスの女子出産の電報が入った。喜んでいたルーズベルトは何とその数時間後、母とアリスがチフスで危篤であるというこの日2度目の電報を受け取ったのである。列車で5時間かけてルーズベルトはニューヨークに戻ったが、翌朝母(50歳)が死去、昼には妻アリスが死亡した。

3ヶ月後の5月にシカゴで共和党全国大会があり、傷心のルーズベルトはニューヨーク州代議員として出席したが自ら肩入れする上院議員は大統領候補には指名されなかった。ルーズベルトは政界を引退する決心をしてシカゴからニューヨークには戻らず、そのままダコタ准州に向った。悄然とした姿を人前にさらすことを潔しとせず、人里から離れた所に住み、厳しい自然と孤独の中で自分の精神も肉体も鍛え直そうと思ったからである。

一担ニューヨークに戻ったルーズベルトは生後5ヶ月の長女アリスをボストンの祖父母に預け、そのままダコタに向った。数頭の馬に4種類の銃、2000発の弾丸、食糧、野営用具等を乗せ、47日間一人山中で過ごし、馬上での行程は1600キロに及んだ。ここダコタの地で第7騎兵連隊カスター中佐以下256名がスー族に襲われ全滅したのは、ほんの8年前の出来事であった。そのダコタ准州に多額の資金を投入して24歳のルーズベルトは数千頭の牛を放牧、飼育する牧場のオーナーとなったのである。

1885年11月、27歳になったルーズベルトは妹コーリンの無二の親友であるエジス・キャローとロンドンで結婚式を挙げるため渡英する。エジスと15週間、英仏伊を巡り1887年3月帰国、再び西部ダコタへ戻ると、前年来の寒波のため所有する3000頭を越す牛が死亡、それまでに投資した8万ドルの半分を失ってしまった。
その8万ドルは親の遺産の半分にも達し、そのことで周囲を心配させていたルーズベルトであった。このダコタにおけるルーズベルトの牧場は2ヶ所あり(現在はセオドア・ルーズベルト記念国立公園になっている)、4000頭の牛を集める時には60人のカウボーイを雇ったが、ルーズベルトは雇ったカウボーイ以上に自らに厳しい労働を課した。自身が馬上で1日160キロ移動することや、一晩中の馬上での夜警をもいとわなかった。早暁3時のせわしない朝食の後、すぐに仕事に出て5頭の馬を乗り換え(1頭では馬がつぶれてしまう) 、連続的に40時間以上馬上にいることもあった。

牛の狩り集めの時期には、野営を含めて32日間馬上生活を送ってその行程は1600キロにも及び、まさに映画『ローハイド』の世界にどっぷりと浸かったルーズベルトであった。「禅の修業」にも通じるようなこの厳しい体験は、富豪の家に生まれ育ったルーズベルト青年にとって、後に合衆国国民のリーダーとなる為の『必須不可欠の修業』であったと言えよう。

冬は零下20度を越す厳しい自然と孤独の中で、20代後半の自らの心身を鍛え直したルーズベルトは天性の資質に磨きがかかり1888年(30歳)、前述したベストセラー『西部開拓史』を出版した。この年の大統領選挙では共和党大統領候補ベンジャミン・ハリソンの応援者として、ルーズベルトはイリノイ、ミシガン、ミネソタへ遊説した。

ハリソンは当選し、ルーズベルトの生涯の親友ロッジ(アメリカ政界屈指の名門の当主)は新国務長官ブレインにルーズベルトを国務次官に採用するよう求めたが断られた。やむをえずロッジは大統領ハリソンに直接かけあって結局、アメリカ行政会委員(1889-95年)としてルーズベルトは不満足ながらアメリカ合衆国政府機関の一画にはまった。

金子堅太郎がワシントンで初対面の挨拶をしたのはこの直後の1889(明治22)年で、ルーズベルト31歳の出来事であった。二人はこの初対面以来親しくなり、金子が日本に帰国した後もクリスマスカードを交換したり、時には手紙を交換する交際が続いたという。前述したように驚異的筆まめであったルーズベルトは15万通の書簡を残している。

1896(明治29)年、38歳のセオドア・ルーズベルトはマッキンリー大統領政権下で海軍次官に就任(1897-98年)し、海軍の拡充に力を注ぎ、軍備に積極的なその言動によってしばしば物議をかもした。

1898年米西戦争が勃発すると、彼は職を辞してキューバに赴き、フリー・ライダース(荒馬騎馬隊)という義勇軍を組織してスペイン軍に対し勇戦し、一躍アメリカの国民的英雄となった。米西戦争後ニューヨーク州知事に当選したが、ニューヨーク政界の保守層は全米的人気の高いルーズベルトを煙たがり、1900年の大統領選挙におけるマッキンリー下の副大統領候補に棚上げしてしまった。

ところが当選したマッキンリー大統領は1901(明治34)年9月就任間もなくして暗殺され、セオドア・ルーズベルトはついに43歳にしてアメリカ合衆国第26代大統領(1901-1909年)に就任した。ルーズベルトは、博覧強記、歴史学者、博物学者としても一流の人物であった

 また、前述の荒このみ教授の「西への衝動」(NTT出版)には、次のようなルーズベルトについての興味深い記述がある。

〈シオドア・ルーズベルトの「真のアメリカニズム」

「イェール」の舞台になったニューヨークの下町に、モット・ストリートという通りがある。大通りのキャナル・ストリートと交差するこの通りは、今でも賑やかな場所で、チャイナタウンとイタリア系の多いリトル・イタリーのある地域を走っている。

そのモット・ストリートに、今ではもうとっくに閉鎖されてしまっているが、移民の子供たちを教育したモット・ストリート実業学校があった。英語を教えるのが第一の目的であり、またすぐに働き手になるように、手に職を持たせるのが目的の学校だった。

モット・ストリート実業学校で国旗に忠誠を誓い、敬礼している生徒達の写真がある。そのキャプションは、「私たちの頭脳と、私たちの心を、捧げよう!私たちの国に!ひとつの国家、ひとつの言葉、ひとつの国旗」となっている。

モット・ストリート実業学校では、英語を教えながら知らぬうちに、「ひとつの言葉」しかアメリカ人にないという事を教え込んでいたのである。「ひとつの言葉」を信じる生徒に仕向けていた。この事実は反対に、ニューヨークの下町ではそれだけ雑多な言葉が飛び交っていた事を伝えていよう。

「ひとつの国家、ひとつの言葉、ひとつの国旗」のモットーを、深刻に考えていた政治家がいた。シオドア・ルーズベルトである。新移民の波がアメリカに押し寄せていた19世紀の終わりに、後の大統領になるシオドア・ルーズベルトは、「真のアメリカニズム」という論文を書いた。

その中でルーズベルトは、「移民のアメリカ化」の重要性を説く。とりわけ移民が英語を習得すべきである事を強調し、学校教育で使われる言語は、英語でなければならないと言っている。そして移民が「アメリカ人」になるのであれば、この国に入ってくるのを、大いに歓迎するけれども、旧世界を引きずったままドイツ系アメリカ人であったり、アイルランド系アメリカ人のままでいるのであれば、この国は、そのような移民を必要としない、と述べている。

「移民やその息子が、心の底から強い信頼を寄せて我が国の運命とともにあろう、と思わず、彼らの言語、習慣、生活様式、後にした旧世界の思想にしがみついているのであれば、それは、彼らに不利益になり、我々の不利益にもなる。移民が同化せず、外国人のまま、我々と利益をともにしないのなら、移民は、我々の暮らしに障害になり、さらに、彼らも、この国に暮らして利益を得ることにならない。実際、彼らがかたくなだと、我々も困るが、それよりも、彼ら自身がもっと困難な状態に陥るのである」と、ルーズベルトは書いている〉

多民族国家として存続するためには、ルーズベルが取り組んだ「移民のアメリカ化」という問題は、昔も、今も、将来もアメリカにとって不可欠の要件である。ルーズベルトに関して、更に補足をする。

彼は、1905年には日露戦争で日本とロシアの調停を務め、ポーツマス条約締結に向けての日露交渉の進捗に尽力した。この和平交渉の斡旋によって、ルーズベルトは1906年にノーベル平和賞を受賞した。

一方、内政面では反トラスト法を発動して独占資本を規制し、外交面においては海軍力を楯に「棍棒外交」をモットーにアメリカの軍事的影響力の拡大に力を注ぎ、カリブ海諸国へ武力で干渉したほか、パナマ運河を独占的に建設した。

また、日露戦争後は、台頭する日本を念頭に、1905年には対日戦争を想定した「オレンジ戦争計画」を初めて策定した。1907年12月から1909年2月にかけて、世界とりわけ日露戦勝に酔う日本に対し、増強中の米海軍を誇示するためにGreat White Fleet(白色艦隊)―― 艦隊全艦を白色に統一して塗装 ―― による世界一周航海(総航程6万9000キロメートル)を行った。日本では、幕末の黒船との対比で「白船」と呼ばれたそうだ。文字通りの「砲艦外交」である。

このように、ルーズベルトは、格別に積極果敢で実行力・リーダーシップに富んだ人物であったようだ。1899年にヘイ国務長官が中国に対する「門戸開放・機会均等」を宣言し、遅ればせながら海外進出・植民地獲得に本格的に乗り出そうとするまさにその時、マッキンリー大統領の暗殺を奇貨として大統領職にルーズベルトが就任(1901年)したわけだが、アメリカにとってまさに「災い転じて福となす」というべき人事であった。
 

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