ハーバード見聞録(9)

「ハーバード見聞録」のいわれ
 本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。


6月初め米国に到着後、月末の30日に、、初めてボストンに行くことになった。まず、私がボストンに先行し、西林総領事を表敬した後、案内役をしていただく鹿島筑波大学教授と妻が少し遅れて追求し、ボストン市内で落ち合うという段取りであった。

ハーバード大学のあるケンブリッジ市とボストン市は地下鉄路線でも繋がっている。この地下鉄路線は「レッドライン」と呼ばれ、ボストンとケンブリッジを中心とし、北東から南西に延びる路線である。乗客が電車を間違えないように色分けされており、ほかにも「グリーンライン」、「オレンジライン」、「ブルーライン」に区分され、ボストンを中心に交差している。「レッドライン」を直訳すると、なんと「赤線」で、イカガワシイ響きがあるが、勿論他意はなく、単に識別のための色分けに過ぎない。「オレンジラインは、ボストン以南は治安が悪いので、乗らない方が良いですよ」と鹿島教授から忠告を受けた。

ハーバード駅からレッドラインに乗り、六つ目の駅サウスステーションで降りると、ボストン市の中心街に出る。電車がケンブリッジ市とボストン市を隔てるチャールスリバーを渡る時は、地上に出て、鉄橋を越え、再び地下に潜る。

地下鉄は、日本のそれに比べ車内が暗く、地下構内の工事や内装も雑だ。電車も東京の地下鉄に比べ格段落ちる。椅子も床も汚れている。東京では、到着駅が画面でビジュアルに表示されるが、勿論そんな物はない。改札の機械も10年以上昔の代物だ。

こんな国が、何故、宇宙船の技術を持ち、ビル・ゲイツのマイクロソフト社がWindowsを開発し、核・ミサイルを含む世界最強の軍事力を保有できるのか、不思議でならない。すでにアメリカを言い表す言葉として、「ブロードバンド」と言うコピーを書いたが、もうひとつの表現としては、「ハイ・ロー・ミックス」と言う言葉が相応しいのかも知れない。

電車のスケジュールも、実に大まかで、日本の尼崎列車事故に皮肉にも象徴される、我が国の列車運行「ダイヤ」の正確さ・緻密さに比べ、実に「おおらか」と言う表現が当てはまる当地の地下鉄事情である。

乗客も違う。乗車待ちの際、日本のように整然と列を作らない。服装もラフだ。夏だから、サンダルに半ズボンと実に合理的。日本のように背広にネクタイの乗客にはこれまで殆どお目にかかれなかった。

私にとっては、下車駅を間違わないことが最大の問題だ。アルファベット表記は、表音文字だから、クイックに脳ミソには浸透しない。これが「鶯谷」や「日暮里」、「駒込」と来ると瞬時に伝わるのだが。私にとって、車内放送での駅の名前のアナウンスは「英語のヒアリング試験」のようなものだ。

騒音の中での聞き取りという悪条件に加え、私は難聴気味なのだ。昔、自衛隊で、耳栓をせずに鉄砲を撃っていた後遺症なのだ。駅名の「サウスステーション」を口の中で繰り返し覚え、アナウンスを聞き漏らすまいと耳を澄ます。「サゥ…ステ…ン」とアクセントの強い部分から何とか聞き取って、無事サウスステーションに降りることが出来た。

サウスステーションは、古い堂々とした大理石造りの見事な建物で、地上に出ると構内も広かった。すぐさま、警察官、駅員、店員、花屋、通行人と次々に「Where is the Japan consular office?」と大声を張り上げて尋ねた。

相手は「?」と私の顔をまじまじと見るばかりだった。「さては発音が悪いのか」と思い、「Japan consular office」更に思いをこめて聞くと、「住所は?通りは?」ときた。「しまった!」西林総領事の「領事館はサウスステーションから1分ぐらいですから」とのお言葉から、「駅に降りればすぐ判る」と早合点し、住所を確認しておかなかったのだ。世界に冠たる日本の領事館ともなれば、ボストンでは有名で、きっと日章旗が翩翻と翻り、私が駅員か誰かに聞けばたちどころに「ああ、あそこですね」と教えてくれるものとばかり思っていた。私の完全な思い違いであった。

10人近くも聞いたが、誰も分らない。だんだん心細くなった頃、白人の中年男性から「あそこの白い大きなビルの中にあるんじゃないか」と言う待望のインフォーメイションに辿り着いた。「あそこ」と指差されても、駅の構内からは何も見えない。そこで、外に出て改めて指差した方向を見ると、白いコンクリート造りの40階ほどの近代ビルを筋向いに見つけた。

すぐにビルに向かう。入り口には、ピストルで武装した物々しい二人の警察官が厳重に警戒し、ID(身分証明書)と手荷物の検査をしていた。ハーバード大学のIDと日本からの運転免許証で、中に入れてもらい、何とか総領事館に辿り着いた。

西林総領事と高島副領事に出迎えていただき、総領事室に通された。白人女性の秘書に緑茶を出していただき、お忙しい身の総領事ご自身が、当地の事情などについて説明してくれた。

「ボストンと日本の関係は古く、8月には、日露戦争終戦のための外交交渉が行われたポーツマス――ボストンの北方約60キロ――で、100周年記念行事が行われます。また、昨年は、ペリーの黒船来航の翌年に結ばれた日米和親条約(1854年)から150年で、日米交流150周年記念式典が行われました。


明治維新に名前を刻んだ人の中で、ボストン周辺では、ニューヘヴン――ボストンの南西方約200キロ――にはジョン・万次郎とアマースト大学の新島襄(同志社大学創設者)がいるほか、ニューポート――ボストンの南方約100キロ――は黒船のペリー提督の出身地でもあります。因みに、ポーツマスやニューポートには今も米海軍の基地がありますが、現在はこの閉鎖・縮小問題が地元の話題に上っています。ジョン・万次郎の記念祭は10月1日に予定され、黒船祭りは、既に7月14日から17日の間行われました。」
 
なお、この時に知遇を頂いた高島正幸副領事には晃子夫人共々、ボストン滞在中、私と妻が公私にわたって格別お世話になった。ハーバード遊学が充実したのは高島ご夫妻のお陰である。正幸氏は残念ながら2012年に亡くなられたが、今も感謝の念でいっぱいである。

領事館を辞し、サウスステーションで、鹿島教授、家内と合流した。最初の目的地は、チャイナタウンである。ボストン市街は、チャールスリバーの河口に近く、マサチューセッツ湾内に突き出た小半島に広がっているが、立地条件が、何となく博多の中洲に似ているように思えた。ボストン市街は、近代的な高層ビルと100年以上も経った古い赤レンガの建物のバランスが面白い。

鹿島教授の地図解読のお陰で、チャイナタウンに入れた。そのとたんに、魚や肉の腐ったような、独特な匂いが立ち込めていた。その匂いは鼻をそむけたくなるところがある半面、人を惹きつける魔力のようなものがあった。この町では、白人や黒人の姿は消え、主人公の中国系の人達がごった返していた。顔が丸く、一般に小柄である。

雑貨店に入って見ると、中国料理用の食材が溢れている。ボストンは、マサチューセッツ湾内にあるので、魚が豊富だ。砕いた氷の上にタイ、チヌ、アカエイに似た魚が並べてあり、「棘」、「蛇」、「龍」などの漢字を組み合わせた魚の名前が書いてある。生簀の中には鯰のようなものが泳いでいる。果物では、ケンブリッジでは見かけないライチの実が沢山置いてあった。日本の駄菓子までがあるではないか。

その雑然とした、混沌とした、何でも受け入れる懐の深さ…、これが中国人なのだろうか。
司馬遼太郎著「アメリカ素描」(読売新聞)の中に、アメリカにおける中国人移民の話が出てくる。

「人類の歴史で、ある時期までのアメリカほど労働力が露骨に市場の商品になった国は少ない。19世紀半ば以降の中国人は、大陸横断鉄道の敷設の時、低廉に使われ、鉄道が開通すると全員解雇された。事後農場に雇われ「チンクス」と蔑称された。(中略)そこへより安い「商品」日系人がやってくることによって中国系がようやく敵でなくなった。その日系人もインド人、フィリピン人、メキシコ人が侵入してくれたお陰で一般の警戒心がそのほうに向かったためにやっと敵でなくなったと言う。」

司馬遼太郎著「アメリカ素描」(読売新聞)

このようにアメリカで辛酸をなめた時代から彼らはアメリカ各地の都市部にチャイナタウンを形成してきたのだろう。彼らはすでに、ずっとそれ以前から、アメリカ以外のアジア各地で、更に苛酷な環境の中でさえも、チャイナタウンをこしらえて、生き抜いてきた民族なのである。

かつて、ソビエトは、マルクスが創り上げた「共産主義イデオロギー」を武器の一つとして世界革命に向け勢力拡大を続けた。ソビエトが自壊した今日、中国が米国の新たなライバルとして台頭しつつあるが、中国の対外的な勢力拡張の源泉・エネルギーたり得るものは、共産主義イデオロギーの〝感染力〟が衰えた現在では「華僑」と「中華思想」であろうか。

鹿島教授お勧めの飲茶の店「龍鳳点心大酒楼」に入った。アメリカの店は一般に、外観はひっそり目立たないが、一歩中に入ると明るくきれいである。この飲茶の店もこの例に違わず、大勢の客(大半は中国人)で活況を呈していた。

私は、飲茶は初めてだが、鹿島教授によると、ここの飲茶は、横浜中華街にも無い味で、安くて美味しいと言う。私のつたない舌でさえも、その味のただならざることは十分に認める程であった。

飲茶の後、二人の女性に従って、デパート兼スパーのような所で、ショッピングに出かけたが、私は、中華街であまりにも興奮し、かつ大いに食べたせいもあり、少々眠くなり、アメリカショッピング事情を書くほどのインスピレーションは湧かなかった。

拙著『中村天風と神心統一法』は、皆様の潜在能力を引き出し、人間力を倍増させ、充実した人生――中村天風師は「盛大なる人生」と呼んだ――を送るノウハウを書いたものです。波乱・狂乱の現代を逞しく生き抜く「力」が得られます。お読みいただければ幸甚です。

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