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死んだ後に何を遺すのか。「新聞王」ピュリッツァーの生き方から学んだこと。(前編)

前回ピュリッツァー賞を調べ、その元になったピュリッツァー自身について興味がわいたので、調べた見たたことを少し書きたいと思います。

■波乱万丈な生い立ち

ジョーゼフ・ピュリッツァー(Joseph Pulitzer)は1847年4月10日、ハンガリーのブダペストより南東約200㎞にあるマコーという街で、ユダヤ系の両親の元に生まれます。彼の父は成功したビジネスマンで、子供たちにもドイツ語やフランス語の教育を施すほど裕福でした。

しかし、父の死後に事業は破産し、一家は貧しくなり、ピュリッツァーが17歳の時に、アメリカに移住することになります。

仕事を探していたピュリッツァーは、17歳でボストンに到着すると、ドイツ人移民部隊の一員として北軍に雇われ、南北戦争を戦います。

戦後、セントルイスに移り、馬丁の仕事に就くも2日でやめ、その後ウエイターの仕事に就くも、誤って常連客にビールをかけたことでクビになるなど仕事が長続きしません。

当時、ピュリッツァーはあまり英語ができなかったそうですが、ウエイターをやめた後に図書館に通いつめ、英語を勉強しながら、貪るように読書をしたそうです。そして、1868年、21歳の頃にドイツ語の日刊新聞「ウェストリッヒ・ポスト Westliche Post」で働き始めます。

しかし働き始めてすぐに、とんでもないことが起きます。
彼はルイジアナの砂糖農園で高給の仕事があるという話を聞きつけ、プロモーターに5ドルを支払いプランテーション農場へ向かいしました。
しかし、蒸気船で川を50キロ程下ったところで、船員に船を下ろさせられてしまいます。実はプランテーションの仕事の就職詐欺だったのです。

しかし、彼は不幸にもめげず、街に戻るとこのことを記事にしたそうで、これが彼の最初の記事になったそうです。

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■全米一の大衆紙のオーナーに

その後、共和党に入党し若干22歳でミズーリ州議会の議員に選出されます。政治活動にいそしむ傍ら、ウェストリッヒ・ポスト紙の主筆になり、1872年に3000ドル(今の価値に直すと日本円で約730万円)で同紙を購入しました。

さらに、その後いくつもの新聞紙を購入。1883年に購入したニューヨーク・ワールド紙では、不正や腐敗の追及など権力批判にこだわった紙面づくりを行い、購読者数は彼が同紙を購入した時点の15,000人から600,000人に増加。全米一の新聞にまで成長させ、「アメリカの新聞王」と呼ばれるようになりました。

ピュリッツァーはその紙面づくりにおいて、どうしたら読者が新聞を読むのかを追究し、それを紙面構成に反映させていました。当時のニューヨーク・ワールド紙をみると、例えばアメリカの労働者階級や貧困層や富裕層について、まるで物語のように記事を書き、そのすぐ横の記事では政治的な記事を載せるといった具合です。

購読者数が40倍になった結果の原因だと思う、「求めているものを提供する」というスタンスってすごく大事だなと思います。


■「自由の女神」との関わり

ピュリッツァーには、当初、台座がなく、資金面から建てるのは困難とされていた自由の女神像を建てるために、資金を民間からの寄付で募る案を考えたというエピソードもあったりします。

この話からも彼のビジネスマンとしての非凡さがうかがえます。
ピュリッツァーについてのドキュメンタリー映画もあるので、興味がある(そして英語が苦手でない)方は、観てみてください。

映画:『ジョーゼフ・ピューリッツァー:ヴォイス・オブ・ザ・ピープル(原題)/ Joseph Pulitzer: Voice of the People』
https://www.amazon.com/Joseph-Pulitzer-People-Adam-Driver/dp/B08DFHTD1J

参考:ジャーナリズムを変えた…ジョーゼフ・ピューリッツァーを描いたドキュメンタリー、監督を直撃!
https://www.cinematoday.jp/news/N0107069

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今回はここまで。
次は彼の遺したものについて書きたいと思います。

ありがとうございました。

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