私が大学教授を好きになれない理由  ~「アルジャーノンに花束を」を読んで~

どうしても大学教授という人種を好きになれないと感じることがある。普通ならもっと仲良くなりたい、相手のことを知りたい、自分のことを知ってもらいたいと思えるのに、なかなかそうなれない。

どんなときに教授を好きになれないかというと

1.興味ではなく「わかっているかどうか」を確認する質問をしてくること

質問をしておいて、分からないなりに自分の考えを必死に答えると、それを否定して持論を述べる…なんて、「もう絶対答えるもんか」と思ってしまうような流れになってしまうこともよくある。

2.質問の答えが返ってこない

これは私が教授に質問をするときの話。1に対して10返ってくるのはありがたいけど、的外れな答えで、口をはさむ隙を与えないから、そのまま路線変更。なんだかむなしくなって、結局聞くことに徹する。私も自分の興味で質問できてないのかもしれない。だから、ただお情けで「聞いています」「興味あります」ということを示すだけの質問になってしまう。

3.「これは私の専門じゃないけど」「○○先生がこの専門なので、興味があったら聞いてみてね」が口癖。

分からないことを聞かれたときに逃れるための予防線を最初から張ってくる。研究ってすごく分野が狭くて、それに時間と労力を費やしてきたのも、費やさなければいけないのも分かる。でも、分からないことや自分の研究分野と違うことも、知らないことを認めて知ろうとする努力が少しでも感じられたら、素敵だなと思って尊敬できるのに。

「教授」という立場からか、自分が優位な立場に立ち続けたいというプライドにしがみついている感じがしてしまう。

こんな、無性に腹が立ったり自分がここにいたくないと思ってしまったりするもやもやした思いを言葉にしようと思ったのは、ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」を読んだのがきっかけだ。

主人公のチャーリー・ゴードンは、精神障害を持って生まれたけれど、脳を操作する手術を受けることでかしこくなり、ありとあらゆる学問を身につける。そして、自分の脳の手術をした教授たちでさえ自分よりも無知であることに驚く。

彼は、読書を通して遭遇したいくつかの見解について論じるためにさまざまな分野の教授たちに会いにいくたびに、その驚きを経験する。

これは、経済学の教授にチャーリーが「ある上院議員の発言、つまりわれわれに敵対している弱小国に対して…(つづく)」について意見を聞いたときの反応。

それは自分の専門外であると弁解しー何を言うひまをあたえず、彼は私の手を握った。お目にかかれて嬉しいが講義の準備がありますのでと言い、そそくさと立ち去った。

それは、別の教授や専門家と話しをしたときにも起こった。

彼らは、己れの知識の狭隘さが露呈するのを恐れて、逃げ出す口実を見つけるのであった。

チャーリーにとっての教授陣は、手術をする前、「尊敬し崇拝する人々」であった。しかし、誰よりも本を読み知識を身につけた彼は、

今では彼らがなんとちがって見えることだろう。そして教授陣を知性ある巨人と思いこんでいた自分のなんたる愚かさよ。彼らはただの人なのだーそして世間にそれを気づかれるのを恐れている。

という。

教授が自分の権威を保つために必死な部分を見ると、どうしても尊敬できずに、惨めな気持ちになる。そして、私自身もそこにいることが恥ずかしくなって逃げだしたい気持ちになる。

大学教授を好きになれないのはきっと、自分がその場所にいること、将来そうなること(教授になること)が求められているのにそうなりたくない・なれないということに気づいてしまうからだと思う。

自分のかっこ悪いところを自覚してしまうから。



追記

悪いところしか見えなかった大学教授の良いところが見えて、そう感じられた自分も少し成長したのかな、と思えた出来事があった。

土壌の研究をしている先生と一緒に実習で土を採取しに行ったときのこと。手に土をつけて、採取した土の標本について熱く語る教授を見ていて、少し考えが変わりました。


一つのことを突き詰めるって、素晴らしいことだと思う。そのことを周りからどう見られるかとか関係なく、ただ情熱的に語っているのを見ると、素直に「あっ、良いな」って。

一つのことに熱中したり、突き詰めて考えたりすることができるのって難しいことだから。人からよく思われたいとか、自分が得をするかどうかとか、因縁がつきまとうから。

教授は学生に教える立場だって思っていると求めることが多くなってミスマッチがおこるけど、一つのことに情熱を注ぎ込む一人の人間だって思ったら、なんだか少しその世界を見てみたいと思えるようになった。

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