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毒親育ちだけど、バルーンアーティストになった私。


しばたふみです!

これまで家庭のことは公開していませんでしたが、私のような人間がいると分かりしんどさが軽減する人がいるかもしれないと思い、今回の投稿に至りました。

胸糞な内容も含みますが、お読みいただけたらありがたいです。


●幼少期●

私の一番古い記憶は、2歳くらいの時です。
視覚的な情景は、かなりはっきり覚えています。

父「@$%℃§£!(何かを大声で怒鳴っている)」

母「やめて!子供の前で大声を出さないで!!」

父「@%§£#@!!!」

何に対して怒っていたかは分からないですが、大声での言い争いをしています。

小さな私は、下を向いて床でおもちゃで遊んでいました。
なんか気まずいなぁと思っていた記憶があります。

母「いい加減にしてよ!子供の前で!!」

父「@%℃$“!!」

父親は、自分の感情が抑えきれないため、母親をぶとうと手を振り上げました。

私はそのとき

「あ、怖い。お母さんがぶたれる」

と直感で感じました。
けたたましい勢いで泣き叫びました。
そうしたら、両親は喧嘩をやめ気まずそうにしていました。
私の前で怒鳴りあった罪悪感があったのかもしれません。

私は

「ああ、うちのお父さんとお母さんは仲が良くないんだ。」

って肌で感じました。

今でも覚えているし、後に

父「あの時の事、覚えてる?悪かったね…」

と何度も何度も言われているので、記憶の間違いではなかったみたい。
トラウマになっているのかな?


●両親との関わりバランス●

私のお世話は100%母がしていました。
ご飯も、送り迎えも、何もかもです。
父は関わった記憶がありません。
何より、父は殆ど家にいませんでした。

私の父は、飲食店を1人で経営していました。

朝から夜遅くまで、1日中そこにいて、3人でご飯を食べた記憶はありません。
顔を合わせても口もききません。
なんか母に悪い気がして、当時は私も父と口をききませんでした。

私の実家は大きめのマンションワンルームでしたが、家具で無理やり仕切って、

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私+母



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父親

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のように生活スペースが仕切られていました。
父の生活スペースは、2畳ほど。ベッドと、数十センチの通路があるだけです。

父は2畳ほどの部屋の中で40年以上、人生の半分を生きています。

もっとも、寝に帰るだけでほとんどの時間はお店にいました。
 お風呂も深夜にコソコソと入ります。
洗濯機を使わず、お風呂で手洗いをしているのを見たこともあります。
多分、洗濯機の所有権は母にあり、嫌味を言われないためになのでしょう。
なので父親の服はいつもしわしわでした。 

同じ家に住んでいるのに、家族はめちゃくちゃでした。

私は、父が父親であるという認識があまりありませんでした。
小学三年まで父の下の名前さえ知りませんでした。
お母さんと生きてて、お母さんが私の親だという感じがありました。

それでも両親は離婚していませんでした。


●なぜ離婚しないの●

子供心にも

「仲良くできないなら、なぜ離婚しないの」

と思っていました。

母は、私の小さいときから

「そのうち離婚します」

と父に言っていたようです。
週刊誌の離婚手続きの切り抜きを部屋で偶然見つけたこともあります。

ただ現在も両親は離婚しておらず、ほとんど口をきかないまま、ひとつ屋根の下、生活エリアを共にしています。

母いわく

「そのうち離婚します」

の一点張り。

父は

「お母さんが離婚したいならする。でも自分からはしない」

といった感じでした。

多分、離婚を切り出す方が負けだというマウント感情があるのだと思います。
私は、険悪な関係を長年見て、傷付いていたのだと思います。

「父も母も、どう考えても幸せじゃない。きっと子供がいるから離婚できないんだ。私のせいで両親は人生がめちゃくちゃになったんだ」

と苦しみました。

 

●父親はどんな人●

声が大きく、いつでも怒鳴るような声色の人でした。

自分の感情を抑えられず、人の話を最後まで聞くことができず、全ての話をかぶせて自分の話を大声で話しつづける人です。

自分をよく見せるために話を盛り、親族にまでたしなめられていました。

また、デリカシーがなく、私の学生時代のふくよかな友人に対しても

「あのデブの子」

というような傷付くことを平気で言う人でした。

また、私が2歳のときのDVの事をいつまでも話して、自分だけが懺悔して許されたような気持ちになって酔っているのです。

父は今でも私が

「今更仲良くなんてなれない!何を今更!」

と言ったことを何十年も責めてきます。

私はいつ言った事なのかもう覚えていないくらいなのですが、言って当たり前の事です。人として何も尊敬できないのですから。

そして、自分が不利になると、人を侮辱するような言葉を使い、心を傷付ける事を言うのです。

私には

「お前みたいな性格の奴は、誰とも結婚できないし選ばれないだろ!彼氏がいないんじゃなくて、お前なんかはできないんだよ!!」

と嘲笑われました。

言ってはいけないことを言い、それが当然許されると思っている人でした。

また、父は私の養育に関するお金を1円も出していません。
母親が自分に協力しないなら、歩み寄らないなら、出す必要がないというのが主張です。

●母はどんな人●

母も、自分は人類のなかで全て正しいと思っているタイプで、勘違いなどでも絶対に謝らない人でした。

また、両親の不仲で苦しんでいる私には

「嫌なら出ていきなさい、好きに生きていきなさい」

と突き放していました。
離婚したいと言っていたのに、矛盾しているんですよね。する気なんてなかったのでしょう。 

また、私が芸能の仕事を目指してオーディションを受けたいと相談しても


「無理」

「いい加減にして」

の一点張りで一欠片も譲歩してくれず、否定されつづけた私は無意識に自分を下げるようになりました。

根拠はなく、

「私は無理なんだ」

「◎さんが褒めてくれた!でも嘘だ。私は無理なんだから、お母さんも無理って言ってたんだから」

といった肯定感の歪みにもなっていました。

それだけのひどい否定も、母はもう覚えていません。
言った記憶がないそうで、そんなのあんたがおかしなこと言い出すから悪いと逆に否定されました。

加害者は覚えていないんですよね、何も。

また、原宿が大好きだった私ですが、ロリータファッションをするたびに

「頭がおかしい」

「いい加減にして」

と言われていたので好きな事にのめり込むことにも強いストッパーとなっていました。


●お互いをDVする夫婦●

父は、母をぶとうとしたことがあり、また、私の養育のお金、生活費などを協力したことがありません。

母は、父の名義の住宅のワンルームの大半を占領し、父を2畳程度の居住エリアに追いやっています。

こんな関係で40年以上、離婚しないでふたりは同じ所に住み続けているのです。


●私がどうしたか&感じたこと●

私は、同じ都内ではありますが、実家から少し離れた場所に引っ越すことができ、両親の存在を近くに感じることがなくなり、本当に気持ちが楽になりました。

もう連絡も取っておらず、親戚経由でたまに話が来るくらいです。
なるべく関わりたくないし、頭の中に入れたくもないんです。

両親は一生を嫌いな相手と過ごして、自分と配偶者を傷付けていくのでしょう。

私の両親は、絶対に関わっちゃいけない人なのです。

私の夢や、バルーンアーティストという仕事をも否定したり、攻撃してくるでしょう。
現に私に、エンタメの仕事をやめさせようと考えており、特に父には
「疲れ切った職業」
と言われたこともあるのです。

それだけは絶対に許さない。

だから距離を取るのです。

加害者は何も覚えていないのです。
狂乱の心の中で、言葉や言動で人を傷付けるんです。
だから、勝負しちゃダメです。
やり返すのもダメ。
今流行りの、スカッと系や、ざまぁ系は創作の中だけです。

かかわらない。そしてそいつの知らないところで楽しく生きる。
それが復讐になるんです。

あと、

『両親がそろっていないと子供が可哀想』
『子供のために離婚しない』

という親御さんも多くいると思います。

でも私は、2歳のときの父親のDVをはっきりと見たんです。
覚えているんです。
私は傷付いたんだと今なら分かります

子供って馬鹿じゃないです。
言語化はできないけど、直感で分かっています。

子供が子供らしくいられるよう、家族が幸せでいられるような選択をしてほしいです。



この投稿は、毒親に苦しむ人の共感や
支えになればと思い、作成しました。

ここまで長い文章を読んでくださり、ありがとうございました。



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