南無阿弥陀 多様性

とりとめもなく書きます。
多様性が、良いものなのかどうなのかも議論したっていい。

そもそも、「多様性だとちょっとやり辛くて、分けてきた!」というのが今。過去を学ぼう。しかも、似た者同士の集まるところにいると居心地がいいのは確か。

多様性の広さや、ステージが違って、多様性という言葉を擦り合わせも難しいし、とことん人と話をした方がいい。今は私は話し合いたくない。多様性という言葉を使って、追い詰められている気分だから。

私は「#多様性教育」と言って人前で話をすることがある。本当にこれがいいのか?というと、「良い、悪いの判断じゃない。ただの状態です」といいたい。

多様性って、なんだか、個性を尊重されて、対等さがあって、アート的な印象もあってこれからに前向きな輝かしい言葉にもとれるけど、実際、簡単じゃない。

何が簡単じゃないかというと、これには経験がある。

①多様性を大切にしようとするのは安易ではない。

②多様性を認めるときは楽じゃない。

③多様性を受け入れて色々やろう!というのは簡単じゃない。

④多様性が認められてない!と腹立つときは、まず自分が相手を認めてないと未熟さに突き付けられる。

⑤多様性の中でさえも、マッチングがある

多様性を状態だとしたら、自分が変化する必要もなく、「あぁ、そうゆう事もあるのね」で済むんだけど、どうしても、家族や職場という同じ組織にいると「同じじゃないとだめ」みたいになってきて、対立が始まる。

そこで登場するのがNVCだと分かってるんだけど、「共感してくれてないじゃん!」とどちらかが言ったら、ほんの少し見出した余裕をもとに、何とか聞こうとするけど、一言の皮肉で寄り添おうと頑張ってた方も一気に崩れていく。自己理解深めようと自分に矢印が向けられる人の集団ならうまくいくかもしれないし、逆に組織にしない方がうまくいくかもしれない。

多様性が出来るとしたら、その時そこにいるメンバーによって仕組みやルールができる。その代償に、多様性が生み出す持ち味の柔軟さが失われている。

多様性がないから、そこにはまだ仕組みやルールがなくても良く、その代償に多様性が生み出す持ち味の柔軟さがある。

「誰でも受け入れられる、対応できるようになるには、ルールがいる◯◯」なのか

それとも

「ルールがないから誰でも受け入れる◯◯」なのか。

ここにジレンマが生じる。

対話だけでは足りなかった現実。
共感だけでは進めなく解決を急ぎたい現実。

何を犠牲にして何を差し出すのか?
何を押し殺して向き合うのか?

「尊重できないなら、無理にそこにいる必要なし。」「だって、どちらにも余裕が無いのだから、”多様性でやっていきましょう!”なんて互いに言えるステージやマッチングではなかったということですので」と、好きなところに行けばいい。

多様性はなくていい。
多様性はあってもいい。

それも含めてどっちでもいいと言えた時、一人前に多様性を語れるようになるのかなぁ。

うわべで語りたくなかったし、多様性という言葉について深まったので、それで良しとして私を慰めることにする。


南無阿弥陀 多様性

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