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「四書」 閻連科

桑島道夫 訳  岩波書店

もくめ書店で購入。
(2023 04/09)

「四書」のモデル?

「四書」の書とはモデルがそれぞれあるようで、最初の「天の子」は創世記がベースになっている、ようだ。

 こどもが足を大地に支えられて帰ってきた。
(p2)


変な表現だけど、こういう言い方は中国であるのか。それとも創世記? それから何かと繰り返される「そのようになった」という言葉も創世記に出てくるのか。
今のところ「天の子」から「更生区」の始めまで。「更生区」の方は、この更生区に送られた作家が、御用作家かつスパイ報告をしていく。報告にあげる部分と削除して引き出しにしまっておく部分がどう分けられているのか、まだわからないが、そこを注意して読み進めようと思う。
(2023 10/11)

「四書」のテクスト

 提出した部分は私の更生中の功績と忠誠の証しだが、残した部分は出所してから書こうと思っている小説の題材と記録ということになる。ただ、どちらが私にとって重要なのかは分からない-作家の生命と作品のどちらが重要なのか分からないのと同じように。
(p25)


「出所してから書こうと思っている小説」というのがこの「四書」自体であることは確かだろう。けれど、各部分にある「削除あり」という注釈、この「四書」にある部分が「削除」された部分であるのか残された部分であるのかはまだわからない。
ついでに?「四書」のラインナップ。「天の子」というのが聖書「創世記」の文体借りた、たぶん一番外側の枠からみた視点、作家も他の人物と同じく「作家」とされる。「旧河道」はその内側、作家の一人称、「天の子」の神話・聖書的記述から降りて独白体になる。「罪人録」は作家が書いて「こども」に提出する報告書というか密告書。これは字体も変えてある。「四書」の四つ目はまだ出てきていない「新シーシュポスの神話」。タイトルからして「天の子」と対峙するのか。帯見ると叙事詩らしい。かつ今確認したらこれも「罪人録」と同じ字体(これも何かの報告か作品化されたものなのか?)。ただ、「罪人録」はともかく、「天の子」と「旧河道」はそこまで異質なテクストでもなく、続けて読みやすいとは思う。

出かける「こども」、伐採されていく木

 晴れて靄がかかっていない日なら、どこに立とうと数十里先まで一望することができた。伐採されたあと、砂地に残された白い切り株が日に照らされて点々と並んでいるさまは、まるで太陽が大地に赤子を産み落としたように見えた。
(p76)


伐採されたのは、国の製鉄奨励策のため。なかなか印象的な比喩で「天の子」の文体ならではなのだが、この後も、特に「こども」が町や省都などに出向く際にたびたび残った木々、それも読んでいくにつれ貧弱になっていく木々の描写が現れる。これは後の大飢饉への布石だろう。なぜこの第九十九更生区の区長?が「こども」なのかは、いまだ説明なし。

 日中鉄のにおいは淡紅色をしていたが、夜になると月のように青く、星のように白く光りながら、黄河に沿って漂ってゆき、こどものテントを取り巻いた。まるで湖水の水蒸気が船のまわりを漂うように。
(p103)


においと色の交差の叙述。共感覚が刺激されてそれだけで印象的だが、この小説、これでもかというくらい「赤」「紅」を強調してくる小説なので、その中でより引き立つ。

花と火

 自身の名前の下の書籍大の赤い枠に花を貼りきれずに、金色の光が溢れたように隣の枠に流れ込んで、飲み込んだしまいそうだった。それはまるである家のアブラナの花が、西隣の田んぼにまで侵食して咲いているようだった。帆布は一面真っ赤に燃えているようだった。こどもはふと、赤々とした炉の火に当たっているかのように温かい気持ちになった。
(p115)


「花」というのは、「こども」が更生区のメンバーに「よくできました」と与えるシールかスタンプみたいなもの。それを125個(25個で一つの星×5)集めると、自分の家に戻っていいことになっている。帰りたいから皆目標に向けて働くので、その「花」が咲く。ここではアブラナの比喩が目を引く。後半はp103の文章の時に書いた「赤」の文章の一つ。この後、「こども」が省都に行っている時に、「こども」のテントは実際に燃えてしまう。

さて、今日午前中で、第十一章「火」まで。ここの最後は、星5個(花換算125個)もらった作家が、夜に自分の家に旅立とうとして、出る直前に更生区メンバーの若者達に襲われて、星5個と「引き出しにしまっていた」提出していない原稿を燃やされてしまう。ということは、上に書いた「削除あり」はこの燃えた部分?それとも?

さてさて、どうして星5個ももらえたのか全く書いていないので、それも気になるのだが、よくよく振り返ってみると、学者と音楽(ピアニストの女性)との姦通場面も、宗教(学者)が「資本論」の中をくり抜いて聖書を入れていたことも、この作家の「罪人録」による…から、この作家なる人物かなり(前半で出てきた実験という若者と同程度かそれ以上に)卑屈な人物(この辺、閻連科自身の反省があるのかないのか…)。ただ、この事件後、作家はかえってすっきりして更生区に戻る。作家も新たな生き方の出発点に立つのか。解説読むと、どうやら最後には「こども」も生まれ変わるらしいし。あとは実験がどうなるか。
そして、これだけ製鉄で木々を伐採、燃やしてしまうと、農業がそろそろ心配…「大飢饉」…なんだかまたカニバリズムなにおいが…
(2023 10/15)

赤表現続き…

 ベッドには艶やかな赤が巻きついていただけでなく、赤いシーツが敷かれ、暗い紫を帯びた赤い布団がかけられていた。こどもはすっぽり赤に包まれ、ベッドは燃えているようだった。こどもは火のなかから生まれてきた聖なる嬰児だった。
(p253)

 こどものベッドは赤い波間を漂う舟だった。この赤い舟のようなベッドに横になっているのはしかし、こどもではなく、一糸まとわぬ姿の若い音楽家だった。全身上から下まで、何も着ていなかった。
(p271)


解説の訳者桑島道夫氏によると、この「こども」は「毛沢東の良い子供」と称された紅衛兵だろうとのこと。だんだん読み進めるにつれ、こどもが暴力的な態度から聖化されつつある。p271の文では音楽(ここでは「音楽」ではなく「音楽家」になっている。こどもに対峙する時だけは個人化されるのか)がこどもの部屋に入り一夜を提供しようとするが、実はこどもは不能だった。これは中国ではシャーマンなどに身的欠陥がある人が選ばれやすい伝統と繋がっている、と桑島氏。

物語は…この作品では、じっくり筋を追うということはしないで、作品の世界に浸っていくようにして、読んでいた。なので、わからないところも多い。作家が離れた小高い丘で、自分の血を入れた水を流した畑で小麦を作ったところなど(この血を入れて植物が狂ったように成長するというモチーフは、大躍進政策の無謀ぶりを象徴している、と解説にはある)。
作家はまた「罪人録」を書いてこどものところの食糧を少しもらう、という行動に戻っていた。最後には、自分のふくらはぎ付近の肉を切り取って、学者に食べさせるという展開になる。「別荘」に続く今年2回目のカニバリズム。あっちは聖なる儀式を経ていただく、という感じだったが、「四書」のはソ連の「共食いの島 スターリンの知られざるグラーグ」の系列。どちらにしても、自身の肉を提供するという例は珍しいと思う。ここにもそれ以上の深い意味や読みはあるのだろうけど。
ここまで日曜日分。

新シーシュポスの神話

ここから今日分。
こどもが国の都へ行ったままなかなか戻ってこない。戻ってきた日に「星と食糧をやるから明日朝には皆どこにでも行ってよい」と言う。翌朝、こどもは自分みずから十字架に登って磔になった。こどもはキリストなのか。
「新シーシュポスの神話」。これは作家ではなく学者の書いたものらしい(そういえば、「天の子」は結局誰が書いたのだろう。p339には「作者不詳」とあるが)。

 明日、明後日の到来は、事前に設定された段取りを一つ一つ後ろから前に進めているだけで、連環画を最後の頁から、一頁ずつ前にめくるようなものだ。それゆえ、私たちは未来のことについては記憶しているが、過去のことは何も知らず、予測することしかできないのである。
(p340)


坂をシーシュポスが大岩押して登っていく、その日のうちに大岩は坂を下って元に戻る。この永遠の繰り返し、というのが一般的シーシュポスの神話なのだが、こちらでは、シーシュポスの「慣れ」に気づいた神が逆転させ、坂を下る時に大きな力を要する。底まで行ったら大岩は何も力を加えなくても坂を登っていく。これ第九章の「不思議な坂」そのものではないか。しかも普通の坂を自動的に下る大岩は西洋の世界、逆転して大岩が自動的に坂を登るのが東洋の世界、ともある。
となると、全体の物語も逆回しすればわかるのかな。イエスの磔刑、それからカニバリズムの原罪…
まだ読後感が全く落ち着かない…
(2023 10/16)

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