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「禁欲のヨーロッパ 修道院の起源」 佐藤彰一

中公新書  中央公論新社


第1章「古代ギリシアとローマの養生法」


禁欲、特に性欲(異性だけでなく、同性においても)を断つために、エジプトやアナトリアの荒野に一人向かう、という若者が紀元4、5世紀頃には多く見られる。この本はそうした黎明期から、修道院設立された時代直前までが舞台。
そして、古代ギリシャ(特にスパルタとか)、古代ローマにかけて、心身特に身体の健康に重点を置いた考えが、帝政ローマになるに従いテクノクラート的なデスクワークな仕事が増えるに従い、減少し始める。そこで、禁欲で身体を整える動きが見られた。それが修道士の始まり?
(2023 12/14)

第2章「女性と子供の身体をめぐる支配連関」

ここは女性との関係。言うまでもなく、古代ギリシャも古代ローマも男性中心社会で、ただただ生殖の相手としてのみの医学的興味でしかなかった。貴族の立場の女性では、古代ギリシャでは娘の結婚の決定権は父親にあったが、古代ローマにおいては決定権は娘の側にあった。これは、ローマでの女性の結婚年齢が異様に早い(12歳とか?)のとセットで考える。そしてローマの法では、最初にとりあえず子供を作れば家が認められるということになったので、こんなに早い(だからかそれを過ぎると堕胎の自由とかも認められていたという)。だから、ギリシャの方が女性にとってはよかったとも言えるかもしれない、と佐藤氏。
第2章は続く…
(2023 12/15)

第2章続き。
古代ローマの子供出産の様子。産婆は生まれてくる子供の生存権を握る。生まれた直後、子供の身体になんらかの異常があった場合、その場で殺害してしまうことが多かった。続いてその子供が息子か娘か産婆は伝える。息子の時は父親が抱くが、娘の場合は抱かない。酷い時には戸外遺棄する場合も。
生まれることを認可された子供も、繃帯のようなもので身体をぐるぐる巻きにして、古代ローマで理想的な体系と右利きへの矯正など、2か月くらいそのままにされた(沐浴と排泄の時を除いて)。

第3章「抑圧の社会的帰結」


こうした早期結婚、早期出産、かつ一回出産したら夫の性生活は別の女性(内縁関係)へ向かう、という社会システムの中で、女性たちはいわゆるヒステリーの症状を訴えることになる。

 妻や内縁の女性たちは、離別したり夫の関心が他の女性に向いたとき、孤独に耐えるしかなかった。ローマの結婚・内縁制度のなかで女性に課された孤独は、こうして動機づけられ選択された孤独、そして自発的な節制となる。その孤独のなかで受け入れたキリスト教-キリスト教が当初ローマの市民に普及するにあたって、諸階層を通じて男性より女性に、より急速に浸透したのは周知の事実である-を拠り所とした彼女たちにとって、こうした状況すべてが、異教徒の夫、あるいは内縁の夫を排除した彼女たち自身の個人生活の、キリスト教に改宗した女性だけの生活の枠組みとして受け入れられた。
(p69)


中世ヨーロッパの修道会にも似た流れがあるような。
この本後半ではこういった心性が、後にキリスト教徒の禁欲につながっている、という流れ?
(2023 12/18)

第4章「キリスト教的禁欲への道程」


第3章まではキリスト教以前の古代期の心性。ここからはいよいよキリスト教の禁欲の話。話題がかなり変わったかと思うのだが、これまでの心性史が禁欲の時代を産んだ元となっている、というのがこの本のテーマだから…
アンティオキアのヨアンネス・クリュソストモス(4世紀後半)。彼は「古代末期の形成」のピーター・ブラウンによれば、「古代世界の偉大な都市的説教者の最後の人物、説教はまた古代都市の弔いの晩鐘」と述べている(クリュソストモスとは「黄金の口」の意味)。

 肉体とその傷つきやすさ、性的恥辱の遍在と性的誘惑の儚さは、まさしくヨアンネスにとって、アンティオキアのキリスト教徒が、崩壊しつつある古代的、世俗的都市文明の価値規範のなかで独自の道を見いだす確かな指針となる。
 ヨアンネスは心の底からそうした都市の体現する世俗的、古代的属性を望んだのだが、処女性を守ること、純潔を守ること、貞潔の完全な実践は、まさに都市的、すなわち古代的な規範への真っ向からの挑戦であった。
(p76)


エジプトでは、砂漠の中に修道士が入るようになり、やがてそれは増減ありながら修道院に発展していく。

 物理的に人間の集落とはさほど離れてはいないのに、エジプトの修道士は同時代人の想像力のなかで、巨大な聳え立つ存在として映った。なぜなら、彼らはニトリアから世界の果てまで続くと思われる砂の大海原の入り口に、その無限の空虚の重みに抗して立ちはだかる人間だったからである。彼らはいかなる人も住めない場所に根を下ろした新しい人間類型であった。
(p88)


修道士たちの禁欲。最も重要であったのは性欲の節制。女性はもとより若い男性も狙われていた。もっとも、一回くらい?禁欲に失敗しても、修道院の長老?が自分の経験を語って聞かせ、それでやり直せる、とのこと。
(2023 12/19)

第4章残りと第5章で、第1部「古代の禁欲心性と史的系譜」読み終わり(2部構成だったのね…)
この本のタネ本(というか人)はピーター・ブラウンとアリーヌ・ルーセル。
まずは第4章残り分からピーター・ブラウン。ルーセルがこの時代の禁欲心性を性欲からの解放を目指したというのに対し、ブラウンは飢餓の苦痛からの解放を目指したという。

 ただわずかに祈りと断食の人間的リズムで動物と隔てられているにすぎないような状態となる。これはギリシア語で「アディアフォリア」(飢餓)と称される恐ろしい状態である。そのなかで人間と砂漠の境界、人間と動物とが混沌として区別のつかぬ状況下が出現する。性的衝動ではなく、このアディアフォリアこそが、砂漠の修道士が最大の不安を感じ、また素直に描写した状況であった。なぜなら彼らは自らのうちに、そのもっとも奥深いところでそれを恐れたからであった。
(p116)


…といっても、エジプトの砂漠修道士の消費カロリーは、当時のエジプトの貧困農民とほぼ同じなのだという。だから、最低限の食事はあるので、貧困者が修道士になった事例もある。著者佐藤氏はどちらかというと、ここはルーセルよりブラウンに傾いている。

第5章「社会的禁欲における女性の役割」

キリスト教が普及した地域では、家族のうち一人でも処女を守っている女性がいると、その家や村は災難から守られる、という信仰が一般的だった。また、メラニアやオリンピアという、イエルサレムの女子修道院を設立したり(メラニア)、コンスタンティノープルでの貧民救済を取り仕切ったり(オランピア)という女性もいたという。
この時代の特徴は、夫婦のどちらかがもう一方に(妻から夫へのケースが多い)禁欲生活を勧めたり、子供に禁欲生活に向かわせたりもしていた。

 禁欲の生活に入りたいという切実な欲求、強制された結婚生活への嫌悪、男性と等しくその活動が評価される教会の種々の救済活動への専心、こうしたものがローマ帝国の女性をして、古代世界の転換のもっとも主要な役者の一人たらしめたのだ」と。
(p130)


こちらはルーセルの言葉。自分が適当に考えるに、一番の動機は「男性と等しくその活動が評価される」というところにあるのではないだろうか。
(2023 12/20)

第6章「東方修道制の西漸」、第7章「聖域と治癒」

今日から第2部、「ポスト・ローマの修道制」
今日読んだところの、最初の方と最後の方から長めの引用。まずは最初の方。

 ヨーロッパ民衆の自己省察の出発点にあるのは、砂漠の修道士の禁欲実践においてその達成のための必須の手段とされた、自己の欲望の摘出という心理ゲーム(ミシェル・フーコー)であった。欲望の克服の手立てとして、修道士たちは自分のなかに巣くう欲望のかすかな影をも認識し、そうすることによって、その作用に打ち克つのである。後に中世西欧においてこの心理ゲームは、告白と贖罪のシステムとして教会当局により制度化され、民衆一人ひとりを捉える宗教実践として、恒常的に機能することになるのである。
(p141)

心理学でいう「社会化」とか精神分析でいう「超自我」というのはこうして生まれたものだろう。ということは、その前は「社会化」も「超自我」もなかった?
そのことを想像する事は簡単にはできないことを鑑みるにおよび、この変化は人間心理的に重大変化が起こっていると言えよう。そしてそこから、魔女狩りや思想統制などにまで及んでいく。

 ルーセルによれば、病の進行の予測がより強い関心の対象である場合と、病の原因が何であるかが第一義的な関心である場合とでは、その違いは二つの異なる文化のありようによって規定される根本的な差異であるという。当然のことながら、この二つの文明圏では医学そのものの性格さえ異なる。西欧の古典古代の医学は、病気の原因よりもむしろ、治療の方法、薬物学やその処方を探求することに強い関心を払った。これに対してキリスト教的思想は、病因論への傾斜がより強かった。聖域における神々への祈願は、なによりもまず治癒祈願であったことは、あらためて述べるまでもない。それと異なり病の原因を探求することへの関心は、病者の過去を遡って詳しく検討する作業を伴うのであり、時間軸が重要な意味をもつ。その点で根本的に歴史的性格をもっている。
(p185-186)


最後の方の文章は、パラダイムの異なる文化が同時進行で起こっていたというべきか。

第6章はエジプトの砂漠などの修道院の思想や方法を、ローマの貴族たちも受け継いでいったこと。
第7章は、ガリアでのキリスト教以前の聖域(例えば泉)が3世紀から4世紀にかけて放棄されたり壊されたりしたことの考察。最初は新たに流入したゲルマン系民族が問題とされる。一方、聖マルティヌスの西漸とは直接の因果関係がそれほどないという。
(2023 12/21)

第8章「聖マルティヌスによる宗教心性の転換」、第9章「レランス修道院とローヌ修道制」


マルティヌスは現ハンガリーとオーストリアとの国境付近の生まれ。ポワティエ司教のヒラリウスを師として、病気を治癒する奇跡を起こした。前章のガリアの「聖域」重視(場所重視、治癒の方法重視)から、「人」重視(聖人重視、病因論重視)へという転換期に当たる人物。トゥール司教を勤めながら、ロワール川対岸に開いたマールムティエ修道院は、次章のレランス修道院に比較して、瞑想的、貴族的で、労働を筆写以外は勧めず、戒律もほとんどない修道院であった。

一方、ヨハンネス・カッシアヌスのマルセイユのサン・ヴィクトール修道院、ホノラトゥスのカンヌ沖合の島にあるレランス修道院では、創立者たちが東方エジプトの修道院にいたこともあり、労働重視、戒律重視の修道院となっている。レランス修道院はこの頃北方からゲルマン民族が流入し、当地にいたローマやフランクの貴族達が「避難」してきてこの修道院に加わったとされる。この通説に対し、ピーター・ブラウンは彼ら創始者は、当時ローマ帝国内での貴族層が分裂し始め、その下側の層の出身ではなかったか、という。またこの修道院メンバーであったサルウィアヌスの「神の支配について」という書物は、ローマの堕落とゲルマン社会とを比べ多くの人がゲルマン側に流れていると指摘し、近代(モンテスキューなど)以来よく引用されているが、現代ではローマ期1世紀に書かれたタキトゥス「ゲルマニア」(タキトゥス自身がゲルマニアを訪れたかどうかも疑問視されている)と同じように、ローマ文筆家の1ジャンルではなかったか、としている。

もう一つ。このレランス修道院特有の問題としてペラギウスの教説が重視されていたことがある。ウィンケンティウスやファウストゥスという修道士などがその傾向を持つ。アウグスティヌスの人間の原罪を重要視する立場に対し、これらペラギウス派?は人間の自由意志を重く見る立場。徐々に主流のアウグスティヌス派から孤立し、後にはレランス修道院での書物を見ることを禁じられたりもする。東方の戒律重視の修道院としては意外だなと思う…けれど、このペラギウスっていつかどっかで見て調べていたような…

第10章「ポスト・ローマの司教権力と修道院」


今日は前半を。カルケドン会議(451年)において、司教-修道院長-修道士という指揮権関係が明確化された。これによって例えばレランス修道院と管轄司教との争いが調停されている。6世紀になると、都市壁内部や都市壁外のすぐ近くに修道院が建設されることが多くなる(新しい修道院建設も司教の許可がいる)。こうした都市内修道院はしばしば「バシリカ」、中の修道士は「フラテール」と呼ばれ、これまでの離れた場所の修道院「モナステリウム」、修道士「モナクス」と区別されている。バシリカの方は、聖人の墓から発展したケースが多く、自発的に修道士が集まり院長職もない、とされた。
(2023 12/22)

都市内修道院は6世紀末のポワティエのサント・クロワ修道院での修道女叛乱(王族の娘たち40人が修道院を出てならず者を集めて率いた叛乱)で曲がり角を迎え、続く7世紀には聖コロンバヌスがアイルランドからガリアへ渡り、弛緩したガリアの修道院の再編を行う。そこで、修道院は農村部への立地に変わっていく。砂漠の修道士の自己欲望の摘出は、「贖罪」のための自己省察へとつながる一方で、農村への移転は修道院の荘園領主化していくきっかけとなった。
この本の記述はこの6世紀末まで。で、読み終わり。
(2023 12/23)

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