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「生埋め ある狂人の手記より」 サーデグ・ヘダーヤト

石井啓一郎 訳  文学の冒険  国書刊行会

「幕屋の人形」

昨夜「幕屋の人形」読んだ。
留学していたフランス、ル・アーブルの店のマネキンに恋をした真面目なイラン人学生…ヘダーヤト自身を重ねてしまいそうになる。果たしてどれくらい重なりがあるのか…
マネキンをイランに持ち帰って部屋で見ている男に、留学前から許嫁として決められていた親類の娘が横恋慕する。結末は幻想的描写かつ陰惨…イランの文学も20世紀初頭からなかなか…と思うけど、よく考えてみれば「千一夜物語」、いやそれ以前からの「物語大国」ペルシア=イラン。ここでは、この娘側から書き直してみるのを提案したい。それも、今のイランの女性に…
(「テヘランで「ロリータ」を読む」というのもあったけど…前提として、そもそも今のイランでヘダーヤトは読むことができるのだろうか?)
(2022 12/19)

「タフテ・アブーナスル」

昨日は「タフテ・アブーナスル」。ササン朝時代のミイラを蘇らせる話で、前に読んだルゴーネスにも同じような趣向の話があった。現代作家、例が妥当かはわからないけれど、「シブヤで目覚めて」のアンナ・ツィマ辺りだったら、ミイラが蘇ってから、現代の人々と二転三転展開を作りそうだが、第二次世界大戦の時代かつ先述の浦島伝説の語り口からいって、あっさりと?灰になってしまう。この話だけ他の短編と異なり、かなり後期の作品。
(2022 12/21)

「捨てられた女」と「深淵」

この2編は、書き方はともかく、書かれた内容は、これまでの2編より幻想味は少ない。日常の男女のすれ違いと別離。ただ、鞭打たれても捨てた男を探しにいく(夢破れると子供も街角に置き去りにしててしまう)女とか(「捨てられた女」)、友人の自殺に対して、自分の妻がその友人と通じていたのではと疑い、結果妻子に出ていかれ、娘は父を探しに逃げ出して死んでしまうとか(「深淵」)、情念の渦巻くさまは共通している。
次の引用は、「捨てられた女」の主人公ザリーン・コラーがゴル・べブーに会った日の夜のところ。

 全身に何か狂暴な気持ちがこみあげていた。少しづつ池のほうへと向かって、柘榴の木の下で立ち止まった。このとき、あたかも木と大地と空と星、そして月光のすべてが何か不思議な言葉で語り掛けているようであった。
(p65)


ヘダーヤト作品には珍しい?みずみずしいこうした表現がこの後1ページ続く…しかしここにも人間の情念が狂気につながる、その入口の一歩が見え隠れしていないか。
ゴル・べブーとザリーン・コラーは結婚しテヘランで生活し始めるが、なんと3ヶ月後にはゴル・べブーは毎夜カフェで阿片を吸って、家に帰れば妻を鞭打つ日々。イギリスが流通させていた阿片というのはこんなところにも影響与えていたのか…と思っていたら、次の場面では、捨てられたザリーンが泣いたりむずがったりしないように阿片を与えているとか…

 脱穀機は物悲しい音を出して麦の黄金色の穂を挽いていた。長い角と鼻面の伸びた牛たちは、背に打たれた傷痕をとどめて、夕暮れまでただひとところを回っていた。この獣らが何を感じていたか、今なら彼にも解った。彼もまた一生涯目を閉じてただひと処を回っていたのだった。まるで油搾木の馬か、臼をまわすあの牛のようではないか。
(p105)


こちらは「深淵」。主人公は妻と友人との関係を疑っているが、結局、この自殺した友人は一人で悩んでいて、主人公の妻には何も打ち明けてもいなかったのだが…下を向き同じ小さな円を回っているだけの思考はそこまで到達できず…
イランも北の方は結構冬は寒く雪も降る。この作品はそうした冬が背景。
(2022 12/22)

「深淵」追加。上のように書かれたものから読んでみたが、何かあやふやな点も残る。例えば、友人が自殺してから娘が友人と似ていると思うなどというのはおかしい気もする。友人を思い過ぎてしまったためとも言えなくもないが、今度はだったらそれを少しは自覚して妻と友人が通じているとかは考えないのではとも思う。
それから主人公自身は、その妻が言うには「ロシア女のあばずれ」とやっていたらしいのだが(それ自体は本人は否定はしていない)、だったらあそこまで妻を罵らないのではとも思う。また友人側も何故今になって自殺などしたのだろうか…遺書にわざわざ誤解を招くような言い訳を書いたりして…もし、今真実を語っているとしているこの遺書が、本当は嘘を言っているとしたら…どちらかといえばそちらの方があり得そう…
(2022 12/23)

「ヴァラーミーンの夜」と「生埋め」


昨夜(というか今日未明)「ヴァラーミーンの夜」と「生埋め」を読んだ。
「ヴァラーミーンの夜」は、迷信から脱却したと思っている夫と、そうした信仰の中に生きている妻と、その妹?の話。妻が亡くなり、その直前に「あなたが迷信というものに従って、またあなたの前に現れる」と言う。そして、夫自身も病気になり、回復したのでまた家に戻ってくる。と、その家は荒れ果てている。夜な夜な亡くなった妻ファランギースの奏でるタールの音が聞こえるという。そして夫は一夜を過ごすが…

 タールの音はまるですすり泣きのように切れ切れに宙に波打っていた。高く、低く響く一音づつが、彼の存在の編目をズタズタに切り裂いた。押し殺したような陰気な音は、呻吟するように彼の耳に響いた。これこそファランギースが愛してやまなかったホマーユーンではないか。
(p132)


(ホマーユーンはイランの旋法の一つ)
ここまで、読者を煽っておいて、結末は残った妹と別の男の密通現場だった(傍らに妻の弾いていたタールが壊れて置かれていたというのも)、という肩透かしの展開。読者によっていろいろ意見分かれるとこかもしれないけれど、自分はヘダーヤトの透徹した視線が見られる箇所だと思う。

「生埋め」はこの短編集初めての一人称(最後の2行除く)。ヘダーヤト自身の最期を知る身としては、この自殺したい願望を全力で語るテクストは、ヘダーヤトの心情吐露そのものではないかと思ってしまう…が、それはたぶん早計に過ぎるだろう。

 そうだ。思い出した。とりとめもなく色々な思いが浮かんで来た。時計の単調な音を、宿屋の連中の行き来する足音を僕は聞いていた。聴覚が一番鋭敏だった。僕の身体は宙を彷徨するような感じがした。
(p155-156)


自殺するための毒薬飲んだ後は聴覚が一番鋭敏なのか…

「S.G.L.L」

夜「S.G.L.L」読んで読み終わり。
イランにもあったアンチユートピアもの、「われら」とか「素晴らしい新世界」辺りともそんなに時期ずれない(1930年代)。そしてこの作品の特徴は「死や病苦を人間が超越した今、生が一番の苦しみとなっている。ならば集団自殺をして人類という種を自ら絶滅せしめよう」という考えが出てきて、それで使われるのがこの頭文字4文字繋げた、性欲喪失する血清。ところが血清の配分をミスして、性欲がなくなるどころか皆粗暴になっていくという展開に。
アンチユートピアものでも主題は自殺なのか…

こうした背景の中で、中心人物は男女の芸術家。男はこのアンチユートピア社会にはまりつつ相手の女を求めている。女は霊的なものをまだ求めていながら男は冷たく拒む。というどっちにもヘダーヤトの思想が半分ずつのような男女が、例の血清打ったらどうなったか。
とりあえずここでは男の芸術観を。

 でも芸術家というのは他の人間よりも感性が強くて、人生の醜いものや下劣な欲求からの逃げ道を求めて自分を騙そうとするように僕には思えるんだ。人生をあるがままにではなしに、制作の中で自分が望むように見ているんだ。
(p176)


これはヘダーヤト自身の内省の結果なのかもしれない。

解説からも一文。

 彼の感じていたものは始まりも終わりもなく、だらりと延びてゆく時間の中に盲目的に存在し続けることへの嫌悪と恐怖であった。
(p207)


無限の時間というと西洋の自然科学観と思いきや、それだけではなく、イスラムやキリスト教など宗教的世界観にも彼は救いは認めなかった、という。たとえば、オマル・ハイヤームの世界観と近いのか遠いのか。今は保留しておく。
(2022 12/25)

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