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「ラテンアメリカの小説の世界 想像力の目眩」 鼓直

北宋社

鼓氏は、「ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯」などの翻訳者会田由氏に師事し、「まだ、ラテンアメリカ文学は誰も手をつけてないからやってみなよ」の一言で、この世界に入った、という。

とりあえず、ボルヘスからプイグまでちびちびと。


ボルヘスは、第一次世界大戦まではヨーロッパ(ジュネーブ→スペイン)にいたが、戦後ブエノスアイレスに戻ってきて、その発展する都会ぶりに驚いた、という。この時代はこの間読んだ、ビオイ=カサーレスの「英雄たちの夢」の時代でもある。
それから、市立図書館の一等補佐員になったボルヘスは階段登る時頭を強く打ちつけ、生死の境を一か月もさまよった、という。やっと復活したボルヘスは、病床で「知的能力を試す」ために、作品を書く。それがボルヘスらしい純粋作品の先駆けである、「『ドン・キホーテ』の著書、ピエール・メナール」だったという。
で、今度は第二次世界大戦後、ペロン政権によって図書館員から左遷されたというのは知っていたけれど、その先が公設市場の鶏と兎の検査員だったらしい…そりゃ確かに左遷だ。

元々は映画の仕事を目指し、その途上で「自分の天職は文学である」と悟った、というプイグからはここを引用。プイグ自身が、ミュージカルや推理小説、メロドラマといった分野に興味があると言ったあと。

 快楽はうさん臭いものと思われている。人びとはそれに罪の意識を抱く。言ってみればマイナーなジャンルは、マチスモが支配的な国々の女性たちとおなじ状態に置かれている。男性は彼女たちから快楽を得ても、彼女たちを尊敬はしない。
(p45)


ここまで、ちびちび分。

ビオイ=カサーレス、「チリ亡命文学者たちの航跡」、ドノーソ、アレナス、カルペンティエル、パスタ、バルガス=リョサ

ここから、今日一気に読んだ分。

「チリ亡命文学者たちの航跡」からは、アリエル・ドルフマン「チレックス」。チリのピノチェト政権下を皮肉ったアンチユートピア小説。

ドノーソ文学を規定するもっとも大きなものが階級対立、という指摘は最初は意外に思った。でも読んでいくと確かにそう思えてくる。

 長いあいだ享受を許されてきた特権的な世界の崩壊をまざまざと予感することから生まれる怯え、底なしの不安。屈従的な身分を避けがたい運命として従順に受け入れる一方で、それを激しく拒否しようとする意志。それらに付け加えれば、いっさいを無化してしまう不吉な死の影とともに容赦なく迫る老いへの恐怖。この恐怖と裏腹の関係にあるが、幼く若い生命が宿している神秘な力へのあこがれ。今ここにある自分とは別の存在へ、というやみがたい変身願望。
(p75-76)


アレナスの「めくるめく世界」は、読まなければならない…だろうなあ。やはり…
18-19世紀メキシコにおいて活躍したが忘れ去られようとしていたセルバンド師という人物に、当時キューバで活動を制限・監視されていたアレナスにとって「同士」と映る。この小説は、「ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯」のようなピカレスク小説を外枠に使いながら、一人称、二人称、三人称とまさに「めくるめく」変化する。客観性を読者に担保する三人称、レイナスが同士に語りかけ史実を押し広げる二人称、そしてセルバンド師他の空想的語りの一人称…

 読者は、言うなれば三面の異なる鏡-平面鏡と凸面鏡と凹面鏡-を掛けつらねた小暗い修道院の長々しい回廊にさまよい込んだような、そんな気分に襲われるのです。
(p93)


リョサからは、フロベールの「ボヴァリー夫人」を分析した「果てしなき饗宴」から、リョサ自身の特徴でもある二項対立を取り上げた箇所を。

 この世界は、いくつもの対によって構成されている。存在するものすべてが、個体とその分身のごとき印象を与え、人生と人物が不気味な反復を演じているように思われる。この二項対立的な世界においては、一が二なのだ。つまり、ひとつの個体と、あるときにはそれとそっくりの、あるいはちょっと変形した複製品という組合せで、すべてができている。
(p136-137)


(2022 09/04)

中村真一郎との対談とマルケスで、この本読み終わり。

前の住谷氏の「ルーマニア、ルーマニア」に引き続く、名翻訳者のあとがき他集。なので、以前読んだものとの重複箇所も多く、結構強引に読み進めた。

中村真一郎との対談では、マルケスに代表されるようなラテンアメリカ文学の文体を、取り込んでいこうとする文学者があまり日本にはいないという指摘。大江健三郎や金井美恵子などがその走りとなってこれからどうなるか、という見立てをしている。現時点では、どうか。あとはその続きとして、日本の作家はシュルレアリスムに真剣に取り組んでこなかった(これは中村氏自身も含む、と当人が語っている)のでは、とも言う。

マルケスでは「百年の孤独」あとがきから。

 マコンドの現実的および空想的な事件の一切は、ラテンアメリカで起きたことの歴史もしくは年代記であると同時に、そもそもヨーロッパにとってユートピアとして意識されたそこで起こりえたことの神話となる。
(p194)


こういう視点はなかった、「百年の孤独」読んで、ヨーロッパのことを思い浮かべたことは、少なくとも自分にはなかった。でもマコンドの歴史は鏡に写せばヨーロッパ史ともなる…のかも…要考察。
(2022 09/05)

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