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「象徴交換と死」 ジャン・ボードリヤール

今村仁司・塚原史 訳  ちくま学芸文庫  筑摩書房

新橋古本まつりで購入。生産を中心に据えた経済とその思想が終焉を迎えた現代、そのシステム内で反乱の力となるのは、原始社会で見られる象徴交換である…という概要らしい?そこにソレルの暴力論からのテロリズムの思想が流れ込む。
(2015 09/28)


序文

しかし、目次眺めていると何かの詩みたいな趣きあるなあ…
ということで?序文読んでみる。

 近代の社会形成体においては、社会を組織する形式としての象徴交換はもう存在しない。とはいえ、象徴界は、死がとりつくように近代社会にとりついている。
(p11)


ここでボードリヤールが適用する理論が3つ。ソシュールのアナグラム論、モースの交換=贈与論、フロイトの死への欲望論。しかしこれをそのまま採用するのではなく、彼らの築いた理論構築物全体に対してラディカルに「対決」させなければならない、という。「モースにたいしてモースを、ソシュールにたいしてソシュールを、フロイトにたいしてフロイトを」(p12)。
序文後半になってくると、なかなか意味が取りづらくなってくる。まあいい、しばらく読み続けよう。

 システムは、石炭紀の怪獣のように自分自身の畸型の大きさにおしひしがれて、すぐさま分解してしまう。これが、システムの固有の論理によって、全面的完成であるがゆえに全面的な欠如へ、絶対的な不可謬性であるがゆえに絶対的衰退へ、と定められたシステムの運命なのである。すべてのエネルギーが結びあってシステム自身の死をめざす。
(p18)


(2023 04/01)

第一部「生産の終焉」

 諸記号は十全に交換しあうわけではない。諸記号はもはや実在と交換されないという条件つきでのみ、相互に完全に交換しあうのである。
(p25-26)


ここは括弧書きの箇所。「つきでのみ」というところに強調点がある。実在はそっちのけ、らしい。

 労働はもはやひとつの力ではなく、労働はもろもろの記号のなかのひとつの記号になったからである。労働は他のものと同じく生産され消費される。労働は、全面的等価性にしたがって、非-労働、余暇と交換され、日常生活の他のあらゆる部門と転換可能である。
(p34)


労働や価値などが神または自然から恵みとして与えられてきた中世的時代から、労働が数量化され座標軸に落とせるようになった近代(力)、そしてその座標軸が背景に退き消滅していく現在(記号)。ここの辺り、アレントと比べてみたい…
(2023 04/03)

 成長は加速化ではなくて、事実上生産の終わりを記す別の何ものかとして理解すべきである。
 生産と消費はもはや独自の決定力もそれぞれの目的ももたないで、生産も消費も共にのりこえてしまうひとつの循環、螺旋あるいは錯綜-成長のそれ-にまきこまれてしまう段階がくる。成長は生産と消費の伝統的な社会目標を遠くに置き去りにする。成長はそれだけでひとつの過程であり、自分自身だけのための過程である。
(p56)


記号と労働に起こった切断。記号表現と記号内容の切断、賃金と労働の切断。このことが、労働と記号内容、賃金と記号表現それぞれが相同性を強め、インフレーションが起こる。とボードリヤールはいう。「成長」それだけが目標のように、経済で言われているように自分などは前から思っていたので、ここの説明は興味深い。
昨日も挙げたアレントの「人間の条件」と重なるところもあるだろう。やはり労働のところ。生きるために最低限必要な労働が第一義になって(しまった)現代(というところまでがアレント)、それ自身が目的化してウロボロスの蛇のようになっているのが「象徴交換と死」のここでの議論。アレントもここまで言ってたか?

続きも読んでみる。ストライキも「生産」の段階での交渉の武器としてのストライキから、山猫ストライキ(要するに働きたくない時ストライキして、生活に困ったらまた来るといったような)へ。生産のための生産…再生産ならば、再ストライキ。1968年の学園紛争やルノーでのストライキによく見られたという。ここでは移民の労働者や組合にも入れない最下層の労働者が「検知器」となり、まずこのようなストライキ等を行い始める。そして全社会に広がっていく。ここも実感あって、前に読んだ「デモのメディア論」はこうした動きを論じたような。それに今適当に「ゆとり世代だから」と十把一絡げに言われていることの根底はこの辺りなのでは…
(2023 04/04)

 量的等価性の可能性すら、死を予想する。賃金と労働力との等価は労働者の死を予想し、すべての商品が互いに等価であることは物の象徴的死滅を予想する。死はいたるところで等価計算と無差別的な規整を可能にする。この死は暴力的でも物理的でもない。それは生と死との無差別的コミュニケーションであり、生きのこることあるいは延期された死のなかで生と死をそれぞれ骨抜きにすることである。
(p95)


次のp96にある奴隷の段階説。
1、捕虜になるとすぐ殺される
2、捕虜となり優遇され相手との交渉の道具となる
3、捕虜となり苦役に従事させられる
4、「解放」奴隷となり労働者となる
ここで段階が大きく(下がって)いくに従い埋没感生かされ感が強くなる…もし自分がかなり若い時にこれ読んでいたら、なんか感化されそう。今では埋没されて周りが何も見えないためそのまま終わりそうであるが…
注から。

 実際のところ、価値の二形式の間にはまったくゲームといってよいものが働いており、すべては二重化と危機の戦略によって支配されている。なぜなら危機は、危機がすでに解決であるところで、あたかも解決を要求しているかのごときふりをするからである。
(p114)


実例を考えてみよう(本書の内容に則さなくてもOK…)。
第一部終了。
(2023 04/06)

第二部「シミュラークルの領域」

シュミラークルの三つの領域
p118にボードリヤール自ら、まとめてくれているのでそこを見よう。
「模造」…ルネサンスから産業革命まで、自然的価値法則
「生産」…産業革命時代、商品の価値法則
「シミュレーション」…コードによって管理される現段階、構造的価値法則

 拘束された記号の時代が終わりを告げると、解き放たれた記号の支配がはじまる。あらゆる社会階級が、無差別的に記号を利用できるようになる。
(p120)


ルネサンス以前の封建社会では、記号は階層間の移動は全くしなかった。これが近代に入ると記号も移動できるようになり、そこに恣意性が生まれてくる。ここはまだ「模造」の時代。あとは、この時代をボードリヤールは「漆喰」というキーワードを使って示しているが、なんと?ボードリヤールの長篇詩の題名が「漆喰の天使」なのだそうだ。詩も書いていたのか…
(2023 04/07)

 要するに、ここでは2個あるいはn個の同一のモノが大量生産される可能性が問題となる。これらのモノ同士の関係は、もはやオリジナルとその模造品の関係でもなければ、アナロジーや反映の関係でもなく、等価性、つまり差異の消滅、を意味している。大量生産されるモノは、互いに相手を規定しようのない無限のシミュラークルとなる。モノだけではない。それらを生産する人間もまた、そうしたシミュラークルとなる。
(p130)


最後の一文はやはりシュミレーションの領域。生物種や無生物をも越えて、全てを記号化して感染伝播していくような見方。
(2023 04/11)

昨日から今日にかけてのところは、第二部第3章から第6章、ベンヤミンとマクルーハンの複製技術論、遺伝子学と言語学の相似(ドーキンスの利己的な遺伝子)、政治の二大政党制が(独占よりも)最終形態になる、世論調査やメディアの「テスト」化(二択法、先に答えがある、触覚性(メディアはマッサージである?))、他社会科学(人類学、社会学、精神分析)をも「テスト化」が覆う、といったところ。この二択法化が、第5章冒頭のライプニッツから第6章最後の世界貿易センタービルまで貫いている。

 実際問題として、また歴史的に見れば、こうした傾向は目的(およびこの目的の達成を見守る多少なりとも弁証法的な摂理)による社会管理が、予測、シミュレーション、プログラム化された予想による、つまり非連続ではあるが、コードに支配された変化による社会管理にとってかわられたことを意味している。
(p143)


支配し、されているのには変わりはない。ただ違うのは、支配している側の人間も、社会がどこに向かっているのかわからなくなっていることだろう。

 問いと答えが際限なくくりかえされるというこの循環性は、あらゆる領域に入りこんでいる。アンケートや世論調査や統計などの全領域で用いられているこの方法を、今や根底から疑ってみなければならないことに、人びとはようやく気がついたところだ。
(p159)


この書が出て40年以上経つが、気がついて、どうしたのだろう。人類学などの参与観察の重視などそこに取り組んだ例もあるとは思うけれど、ビックデータなどそれを暗黙に認めているもしくは積極的に追認している傾向にはないだろうか。
(2023 04/12)

最終章は、ニューヨークのグラフィティ。地下鉄や壁などへの落書き…政治的メッセージではなく、雑多な記号からなるという。この時期(1970年代後半)ニューヨークにしかこの手の落書きはなかった。これは記号化された社会に対する反抗なのだという。

 地下鉄の電車が、目もとまで刺青を彫られた怪物ヒドラとなって、弾丸のように通りすぎる時、都市交通の抑圧的な空間/時間は終わりを告げる。現代都市の一部分は、こうして再び部族的になり、グラフィティという実に強烈だが、意味を持たない飾りとともに、先史時代の洞窟画の段階にもどるのである-肉体に刻みこまれたたこれらの中身のからっぽな記号の飾りは、個人のアイデンティティーを表示するのではなく、集団への帰属のしるしなのだ。
(p198)


現代はもとより近代の体系を飛び越えて、部族や洞窟画へと向かう。このあとの「象徴交換」にもつながりそうな、重要な性質であろう。
(2023 04/13)

第三部「モード、またはコードの夢幻劇」

 モードはつねにレトロ[懐古趣味的]なのだが、それは過去の廃絶に基づいたレトロ、つまりフォルムの死とその亡霊的復活の過程なのだ。モード特有の現代性は、現在に結びついているのではなく、トータルで直接的なルシクラージュそのものである。だから、モードは、逆説的ないいかたをすれば、現代的ではなく、フォルムの死んだ時間、つまり、一種の抽象作用をつねに前提としている。
(p212)


現代から引き離された現代。過去から切り離された過去。この無時間性が循環するモードの動きを作り出していく。

 価値の量的交換には一般的等価物が必要だが、差異の交換にはモデルが必要だ、と。モデルとは、モードの差異化された領域を支配する原型として転用された、この種の一般的等価物のことである。このモデルが、[記号を]配置し、効果づけ、発信するモードのメディアであって、モードは、モデルを通じて、限りなく再生産される。
(p222-223)


等価物がないから、回転が速く際限がない。

 コミュニケーションをめざす言語活動とは反対に、モードはコミュニケーションを演じ、コミュニケーションを、メッセージをもたない意味作用の際限のない代償にしてしまう。
(p228)


モードとは、いつも何事かの閉じられた系の外側を回る「祭り」のようなもの。経済とか言語活動とかの外側をめぐる…

 価値法則が、経済的なものをはるかに越えたところで働いており、今日では、その真の発展はモデルの審級の発展にほかならないという事態は、正しく認識されていない。モデルの存在するところにはどこでも、価値法則が押しつけられ、記号による抑圧と記号そのものの抑圧がおこなわれている。だからこそ、象徴的儀式とモードの記号との間には根源的な差異が存在するのである。
(p229-230)


経済的なものを越えると自称するものが、原始の象徴交換の時代と共通性を持っているという言説に、ここでボードリヤールは注意を促している。経済的なものの外側にはモードの領域が広がっていてそれらはそこに滞留しているものとされる。
(2023 04/16)

第四部「肉体、または記号の屍体置場」

 よく考えてみれば、エロティックな意味をもつ用具はすべて、奴隷(鎖、首輪、鞭など)や未開人(黒人趣味、日焼けした肌、裸体、刺青)のものにほかならない。つまりみな支配されている階級や人種の記号なのである。
(p251)


そこに加わる人間の集団が女性ということになる。

 アルカイックな社会でおこなわれている仮面の着用や肉体への印つけは、神々との、または集団内部での、象徴交換、交換/贈与の直接的実現という機能をもっている-この交換は仮面や記号操作の背後で主体が自分のアイデンティティーを取引することではなくて、その反対に主体が自分のアイデンティティーを消費し、所有/非所有の関係に主体として入りこむことである-つまり、肉体全体が、財や女性と同じ資格で、象徴交換の用具となる-。
(p258)


後半はこの本の後半部分で役に立ちそう。未開社会では裸体は存在しない(刺青やペインティングで身体を覆う)、肉体は取引ではなく消費するものだという。象徴交換が一体何者なのかわかっていないので後半はそこからだな。
(2023 04/17)

 こうしていたるところで、裸体、肉体、性、無意識等々は、深層にある差異にたいして開かれるかわりに、一方が他方を表現する等価物としてつながりあい、一方が他方の換喩となり、それぞれが、性活動の思弁的論理、価値としての性の言説を規定する。
(p285)


裸体・肉体・性・無意識…はそれぞれ等価性を持ち時には交換される。またこれらは、「解放」されたとみなされている、しかしもっと大きな記号体系に組み込まれていった…という共通点もある。
(2023 04/18)

第五部「経済学と死」


第1章「死者の売渡し」
この本も後半に入って、いよいよ「象徴交換と死」というタイトルに関わってきた。近代の黎明期、フーコーが論じているように「狂気」が社会の外側に追放され囲い込まれた。同じように子供・老人・女性などがそれぞれ場所や価値観に押し込まれていく。その中でもっとも根源的な区別が死者の追放である、とボードリヤールは言う。そして、例えば狂気を追放する際にその判断基準となるのは狂気そのものの量であるから、その社会は実は狂気というものに「占拠」された社会である、と論を進める。そしてそれは死についても言える。生は「生きのびることのなかで抑圧された死」なのだという。そして死者との象徴交換も断絶していく。

 工場がもう存在しないというのは、労働がいたるところにあるからである。監獄がもう存在しないというのは、閉じこめと監禁が社会的空間-時間のいたるところにあるからである。アジールがもう存在しないというのは、心理学的・治療的管理が一般化しあたりまえのことになったからである。学校がもう存在しないというのは、社会的過程のすべての神経繊維に訓練と教育が染みこんでいるからである。
(p306)


まだ続いているのだが、この辺で…
今の社会には、工場も監獄も学校も存在している(アジールは?)。それは近代にそれらが成立してから、機能を失って無くなっていく過渡期であるのか。ここでボードリヤールが夢想?する工場や監獄や学校がない世界は、ディストピア小説の世界そのものではないだろうか。

 死がもはや自由にされず、死者たちが、生全体の未来の監禁を待ちうけながら監視下におかれる場合にはじめて、権力は可能になる。
(p312)


生と死の世界を断ち切ること、それが権力の作用だという。今その例として思い出したのは「アンティゴネー」のクレオーン。アンティゴネーが亡くなった兄の葬儀を自分ですることを、彼は禁じた。そしてここから生まれる社会は深くまで死に染められた社会となる。
(2023 04/19)

第2章「未開社会における死の交換」

 加入儀礼がなまの事実しかないところに交換を設定することにあることは明らかである。ひとは、自然的・偶然的・不可逆的な死から、与えられ、受けとられる死へ、したがって社会的交換のなかで可逆的な、交換によって「解決可能な」死へと移行する。同時に、誕生と死との対立は消えうせる。それらもまた象徴的可逆性の種々層の下で交換されあうことができる。
(p317)


いよいよ象徴交換の話に入っていく。死が不可逆ではなく可逆の世界、交換できる世界、記憶が曖昧だがアチェべの「崩れゆく絆」の前半とかはそのような世界だったような。
ここから、いわゆるエディプス・コンプレックス「父を殺し、母と結婚する」というのは未開人にとってはコンプレックスではなく社会的交換の機能ではなかったか、という議論が続く。興味深いテーマだがここではさらっと。もう一つ、人肉供食のテーマもあってここはどうしても「別荘」を思い出してしまう。この供食のキリスト教での名残が聖体拝領(パンとワイン)だという。あと、主人と奴隷の関係は、解放された奴隷には内面化され無意識化する(近代)が、解放されていなければただの関係性でしかない、という指摘も、この本のp96や、ヘーゲルとかとの関連もあって興味深い。

 殺す・もつ・食う-われわれの個人的無意識は、抑圧の支配のもとで、これらの項とそれらをとりまく幻覚をめぐって組織される。
 与える・返す・交換する-未開人のもとでは、すべてのことが、これら三つの項をめぐる明々白々たる集団的交換のなかで、それらの項を支える儀式と神話のなかで進行する。
(p332)


現代社会と未開社会の三つの項がそれぞれ対応しているのかわからないが、前者の三つの項には色濃く「主体」概念が浸透しているのは確か。

 主体は、フーコーが描いていた一七世紀の狂人の監禁に似た正真正銘の監禁を被る。そのとき連続性と交換の思考としての未開の分身の思考は消えうせ、狂気と死のなかでの主体の不連続性という分身の強迫観念が生起する。「自分の分身を見るものは自分の死を見る」。
(p337)


そこで現れるのがドストエフスキーの「分身」(それそのままの小説もあるが、ラスコリーニコフとスタヴローギン、イワンとスメルジャコフというのも分身だろう、それも主と副の関係の)や、シャミッソーの「影」。最後にフロイトの「不気味なもの」が引用されている。フロイトが自身の説の限界?を図らずも見抜いていた?とか…
(2023 04/20)

第3章「経済学と死」

 資本主義的様式においては、誰もがたったひとりで一般的等価物の前に立つ。同様に、誰もがたったひとりで資本主義に直面する。そしてこのことは偶然の一致ではない。なぜなら、一般的等価物とは死であるからだ。
(p346)


(2023 04/21)

「死への欲動」と「死、バタイユの場合」。
前者は精神分析が起こったのは近代からで、そこを乗り越えることが必要だとしている。
引用はどちらも後者から。

 死がほんのわずかでも注入されるだけで、じつに豊かな過剰と両価性がただちに創造されるので、一切の価値の組み合わせが崩壊してしまうことになりかねない。こうして、経済学は、死の節約になる。
(p363)

 生が、あらゆる代償を払ってでも持続したいという欲求でしかないとすれば、この無に帰せしめる行為は、何の代償も求めない豪奢である。生が価値と有用性によって管理されているシステムにおいて、死は無用の豪奢となるが、このシステムに取って代わることができるのは、死だけなのである。
(p367)


バタイユには「消尽」(だっけ?蕩尽?)という著作があったが、それはこの意味か。有用性を崩壊させて、消尽を尽くす未開人の儀礼は、死(無用の豪奢)の予行練習なのかもしれない。
(2023 04/24)

第6章「いたるところに私の死、夢みる私の死」
ここは、様々な死の見本市みたいな章。死を生物学的あるいは近代哲学で見ると、生は死の反対概念であり「自然死」として終わることが望ましいとされるが、ボードリヤールが考えるのは違う。

 死は満期ではなく、生の色合であり、あるいは生は死の色合である。
(p374)


現代は供犠による死の交換はない。そこで…

 あらゆる情熱は非業の死に逃げこむ。非業の死だけが供犠のごとき何ごとか、すなわち集団の意志による現実的転換のようなものを明示するからである。
(p387)


この考えによる社会では、事故死や人質としての死は認められるが、労働災害の死は特別な意味を持たないという。
(2023 04/25)

 動物の処刑がわれわれの内によびおこす嫌悪感は、われわれが動物を扱う軽べつした態度に比例している。
(p394)


中世というか18、9世紀頃まで、スイスの一地方では1906年においても、動物が人間と同じ罪で裁判にかかり処刑されていたという。今では動物を狂人などとともに領域外に追いやったから、処刑ではなく産業的屠殺業に追いやったから、そうなのだとボードリヤールは言う。

 責任というものは、啓蒙時代の個人的遺物であって、システムがより合理的になるにつれてシステム自身によって清算されてしまった。
(p399)


果たして責任という概念がないのか(ボードリヤールもシステムが責任という名前を使って個人に働きかけること自体は否定しないだろう)はすぐに判断できない。

 それの目標は、死を根源的差異からひき離して等価法則にしたがわせることである。ヒューマニズム思想(自由主義であれ革命主義であれ)の愚かさは、死を拒否するおのれの態度がシステムの態度とまったく同じだということを見ようとしないことだ。
(p402)

 生命を絶対的価値として尊重するというただそれだけのことで、文明の進歩が判断されている。公開の死、祝祭の死、拷問の死、自分をうち殺す鉄砲を前にしたオート・ヴォルタの黒人の笑い、ツビナンバ族の人食の風習、そして虐殺や復讐、受難の死や自殺でさえ、これらの間にどんな違いがあろうか。
(p405)


これら、様々な死、一見等価ではないこれらの死が、現在の世界では等価として扱われている。そこに含まれている夾雑物は抜かれて並べられている。

 もしもすべての自殺がよく統合されたシステムのなかで破壊的になるのだとすれば、反対に、あらゆる破壊やシステムへの抵抗は自殺的性格をもつことになる。
(p410)


後者の具体例は何だろう。そしてそもそも「自殺的性格」とは何なのだろうか。

 われわれのシステムは死の生産で生きていながら、安全保障をつくりだすと主張する。百八十度の旋回にみえるが、決してそうではない。両端が結びつく循環がちょっとゆがんだだけのことだ。
(p416)


この本の中で、前にもこの表現(両端が結びつくがちょっとゆがむ)あったような。等価物は死。等価物でシステムが成り立つのなら、その他の副システムは主システム、すなわち等価物の永遠の循環を支えるもの以上のものではない。
(2023 04/29)

今日で第五部終了。

 それは決して世話をしてもらい治してもらいたいというのではなくて、自分の病気を与えたい(贈与したい)という要求なのである。すなわち、彼の病気が病院内の技術的死や健康とか治療とか呼ばれる厳密に機能的な延命のなかで中性化されるのではなく、受け入れられること、したがって象徴的に承認され交換されることを要求しているのである。
(p426-427)


病気を与えるってなんだ、と思うけれど、実際病気になったら確かにそう思うかも。それが交換とされるという考えには、現代社会に生きている自分からは閉ざされているのだけれど。

 われわれがそれ自体ではもう意味はないが、後の時代の他の誰かにとってはひょっとすると意味をもつかもしれないと夢想する文化のなかに生きていることである。
(p430)


アーカイブの思想。まさに今これを書いて(打って)いることそのもの。自分が読み返し、どこかの誰かが見る…可能性は限りなくないが…

 「人類の疎外は、人類が今日自分自身の破壊を第一級の美的快楽のように実験できるほどの段階に達した」
(p431 ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」)


ボードリヤールは、ベンヤミンの場合はこれはファシズムだという。美的快楽のために地球が滅亡するのか…
この時期から長い時期が経ったが、どうだろう。芸術(その他の娯楽産業)はファシズムの方向へ傾いているのではないか。
(2023 04/30)

第6部「神の名の根絶」


ここでは、等価性における交換ではない象徴交換として詩をあげている。ソシュールはアナグラムの研究によって自身の言語学を越える提言をした。がヤコブソン始め後続の言語学者はそれを認めようとは必ずしもしてこなかった…とボードリヤールは言う。

 よい詩とは、そこに何も残されていないような詩、そこでは作動させられたあらゆる音声的素材が使いつくされてしまったような詩のこと
(p462)


(2023 05/02)

現代の言語活動においては、ソシュールの定式である差異の体系、すなわち様々な語は恣意的な意味しか持たず置き換え可能である、という前提で無限の活動をしている。ところが、未開社会では、言語活動は制限が加わることが通常であった。ソシュールの別の研究ではそこに迫ろうとしていた。それがアナグラム研究。

 この生産性のモデル-自乗的経済成長と駆け足の人口増加と無制限な言説性-は、いたるところで同時的に分析されなければならない。
(p465)

 みずからの対象を支配するどころか、対象自体によって分析されることを受け入れるような主体のありかたでもある。つまり、それによって、主体とその対象との本質的な位置関係がとりかえしのつかないほど崩壊してしまう動きである。
(p471)


分析する主体とその対象が入れ替わってしまう、そうした分析。

 詩作品があるものを指示するとしても、それはつねに無そのもの、虚無の項、記号内容ゼロを指示するのだ。完全な解体作用に伴うこの眩暈こそが、記号内容や指示対象の場所を完全に空白にしておくのであり、この空白が詩的実践の強烈さをもたらすのである。
(p481)

 詩は、神の名のこうした死の変型である。
(p484)


ソシュールがアナグラムを分析して証明しようとした詩の言葉。それは失敗に終わったために逆に広大な分析の可能性が残ったのだ、とボードリヤールは言う。詩-神の名を唱えることで、世界が消滅する。こうした世界観はアーサー・クラークの「九〇億の神の名」(邦訳「天の向こう側」に収録)にも描かれている。
(2023 05/03)

 おそらく科学は、唯物論の全面的な理論的危機にたどりつくと同時に、今やその極限にたどりついたようだが、唯物論の影の向こう側に飛躍することができないのだ。科学(たとえ危機の頂点にあっても)と、その向こう側にある何かとの間で「弁証法的」移行はおこなわれず、科学は、この何かから、とりかえしのつかないやり方で切り離されてしまっている。
(p503)

 家具が肉欲になり、肉欲が家具になること-から生じる。だから、価値の、切り離された二つの場には何も残らない…(中略)…それらが詩的なのは、それぞれが相手のなかで消え失せてしまっているからである。
(p505)


昨日のソシュールのところのスタロビンスキーに始まり、ここではヤコブソン、エンプソン、エーコ、クリスティヴァら、言語学者、記号論者を相手に批判を繰り返す。結局曖昧性とか両義性とかいっても、等価性による記号の体系は下部構造に変わらずに残る。ボードリヤールは下のp505のような記号の消滅?を望んでいる。そして科学が未開社会を理解できないのならば、日常生活そのものもまた理解することはできていない、と喝破する。
(2023 05/04)

「機知、またはフロイトにおける経済的なものの幻覚」

 (詩的実践では)無、死、不在が公然と語られ、解消される。やっと死は表に出る。やっと、死は象徴化される。ところが他のあらゆる形式の言説のなかでは、死は徴候的でしかないのである。
(p523)

 これら(機知や洒落)すべては、象徴的強制に応じたものだ。滑稽な話をひとりじめにしておくことはばかげているし、話を聞いて笑わないことは礼儀に反する。だが、自分の話に自分で最初に笑ってしまうこともまた、それなりに交換の微妙な掟を破ることである。
(p532-533)


機知とか洒落が象徴交換だというのが意外でもあった。
続いて、またしてもクリスティヴァ。

 語は(揺れ動く)現実を表現するのではなくて、この現実そのものだ、というのである。
 言語が[無意識と]同じ構造をもち、同じやり方で語り、みずからを分節化するからである。
(p539)


意味を媒介するのではなく、分節自体が同質だという。リズムが一番最初? 文節化した世界が無意識と同一なら、いろいろな単語(名詞・動詞・形容詞から助詞…)で区切られる文章もまた分節化の一例。

 象徴的諸過程(可逆性、アナグラム的ばらまき、残滓なしの吸収)が一次過程(置き換え、圧縮、抑圧)と絶対に混同されてはならないことを理解しておく必要がある。
 詩的実践(芸術作品)や象徴的なものや(未開社会の)人類学について、フロイトもマルクスも、何かを語るすべをまったく心得ていなかった。彼らは、ひとりは生産様式に、もうひとりは抑圧と去勢にすべてを還元して何かを語ったにすぎない。
(p542)


ボードリヤールはこう協調するが、ここのところまだよくわかっていない。まあ全体的にも2割入っているくらいかな(笑)。
(2023 05/05)

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