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「カントはこう考えた 人はなぜ「なぜ」と問うのか」 石川文康

ちくま学芸文庫  筑摩書房

躓きの石

 総じて哲学とは、このような証明不可能な根本原理に対する人間の態度表明だと言っても過言ではない。
(p53)
 それゆえ、このような普遍的・合理的脈略(引用者注、この世すべてが自然必然の因果法則によって生じるのみとする考え方)に自由という「異分子」を差しはさもうとする試みを、カント自身、哲学の「躓きの石」と呼び、その試みがどれほどの意味をもつのかを含めて、ことの困難さをよくわきまえていたほどである。
(p69)

西洋哲学史をざっと以前見た時に、イギリス経験論で見通しよくなってすっきりしたと思ったら、カントが出てきてこねくり回してた(笑)けど、「異物」をわざわざ挟み込もうとしていたわけか。その試みは果たして成功したのか。

帰納と演繹

ライプニッツの「十分な理由の原理」(p75)、ヴォルフの中国孔子に自分の理性哲学の元を見たという講演、ガーナ出身の黒人哲学者、などの話を経て、ベーコンの「新オルガノン」の4つのイードラの話(p101〜)となる。

 重要なことは、演繹法は新しい真理の発見には寄与せず、すでに真理として前提された内訳を明らかにするだけだということである。・・・(中略)・・・それに対して新しい真理を発見するのは帰納法以外ではありえない。
(p115)


その帰納法(データ(事実)から法則性・真理を導き出す)の為に、前に挙げた「十分な理由の法則」がこの時代に登場するのだ。

 それは、自分だけが真なるものとし、他との「異」を主張しているかぎり、自分はかえって「偽」であることを露呈することを教えている。そして、むしろ異なったものの中にも自分との同一性を認めようとするところに、自分自身の真理性が証示されるということのモデルを提示している。
(p142 「賢者ナータン」の3つの指輪のエピソードから)


(2012 01/15)

感性の軸


「カントはこう考えた」第5章より

 とすると、感性を通して「いつ」「どこ」において与えられる物だけが、真に存在する対象、すなわちリアリティーをもつ対象ということになる。最も具体的に言えば、たとえば視覚や聴覚を通して、感覚データとして与えられるものだけが実在するということである。
(p192)
 理性はうっかり、しかしごく自然に感性の限界を見落とし、その限界の外にも「いつ」「どこ」が成り立つと思い込み、アンチノミーにおちいったのである。
(p193)


下の文の「限界」の内容は上の文が示している。このことからカントは時間や空間というものを「主観的」(感性の軸)である、と論じる。「コペルニクス的転回」は実証的データ(これも感性で捕えられるもの)によって理解できているのに対し、「カント的転回」(石川氏の言葉)の方は実証的データが無効なところなので、現在でも実感しにくい。

理性の限界と理性の本性

 人間の理性はある種の認識において、特殊な運命をもっている。すなわちそれは、理性が退けることもできず、答えることもできないような問いにわずらわされるという運命である。退けることができないのは、そのような問いが理性の本性によるからである。答えることができないのは、そのような問いが理性能力の限界を超えているからである。
(p207 「純粋理性批判」の序文から)


前に挙げたp53の哲学の定義からすると、哲学というのは理性能力に仕組まれた(プログラムされた?)「運命」、ということになる。カントの夜のサロンにおいてカントに哲学の話をすると嫌がったというから、カントは本当に「わずらわされ」ていたのかもしれない。
それはともかく、自分にとっては最後の一文(理性の限界)の方より、その前の文(理性の本性)の方が気になる。答えることができない(そして不可能なことをうすうす感じていながらも)のなら、問わなければいいのに、なぜ問うのか?(サブタイトル通り)
人間は自分の存在理由がどこか別なところになければ不安になる動物なのだろう。自分が自分として存在している、というだけでは不安すぎて・・・でも、「なぜ」? 「教え/教えられる」の関係とどこかで繋がりあると思うのだが・・・
(2012 01/21)

自由と因果の相補性原理

「カントはこう考えた」第6章より
「カントはこう考えた」読了した。内容理解しているか、自分の頭で考えているかは、また別問題なのだが(笑)。 

 いかに定説といえど、視点の取り方によってさまざまに説明できることを、ある一つの視点を排他的かつ暗黙のうちに不動の「定点」に昇格させた結果、世間がそれを公認しているものにすぎないということをよく物語っている。「定説」の定説たるゆえんである。 
(p230)
 自由と自然因果も、本来、世界の出来事をめぐる二つの相互補完的な視点にほかならない。その意味で、自由と自然因果の間には、世界理解をめぐる一種の「相補性原理」が成り立つ。 
(p231)


「相補性原理」とは量子力学での、光の性質が粒子でもありかつ波でもあるというようなところで出てくる言葉。粒子か波かという問いは、視点によって異なっているというわけだ。それと同じことが自由か自然因果(必然)かということでも言える、という。自由とは(自然因果が帰属する感性的軸とは異なり)理性的軸、もっと言えば理性そのものが自由の(その前に原因を持たない)究極原因である。そこからいわゆるカントの道徳格率が出てくる、というわけか。

地平線に思いをはせること

 その意味では、地平線は観念的なものである。あたかも、実現不可能な目標がわれわれを誘惑するかのようである。理念とは、そのような魅惑的な力である。 
(p254)


人類はいつの頃からか、地平線、水平線に何かを託すようになった。あの見える端まで行ってみたい、と。でも、行っても行っても地平線もしくは水平線は遠ざかるばかりである。地平線とは、「いま」「ここ」には限定できない、人間の頭が描いたものである。それが「観念的」なものということだ。理性の究極形理念も、そうした「地平線」を目指した旅であった。だいたいが、そういう旅は戻ることを忘れて見知らぬ荒野あるいは海原をさまよう結果になりやすい(のは多くの神話や文学作品が証明している)。イカロスはその祖型であろう。

では、なぜ人はそういう旅に出るのか。旅に出なくても、現状維持でも生活には差し支えないのに、それでもなぜ。ふと今日思ったのは、やっぱり人類はせっかちで待っていられない動物(風変わりなサル)であるから、なのかなということ。明日まで待っていられずに今出かける。結果がやってくるのを待ちきれないで、外出してしまう。自然因果の法則に従っていられないで、せっかちだから先回りしようとする。そうして「自由」の根本原因である「理性」が動き出すのだ。 せっかちなのは多少他の類人たちより肉食寄りなのが働いているのかな?? 

ちなみに、この文庫の解説には「転倒の島」の中川氏が寄稿している。
(2012 01/22)

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