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早稲田文学2015年冬号…世界文学ケモノ道(五大文芸誌も読んでみよう…その3)

五大文芸誌…文學界(文藝春秋)、新潮(新潮社)、群像(講談社)、すばる(集英社)、文藝(河出書房新社)

これら五大文芸誌(以外の文芸誌も)の過去号を図書館で借りてきて(今回は購入)、読んでみる企画(と言えるのか)。
読むのはもとより存在自体も知らなかった…というテイタラクな海外好き日本文学苦手な自分も、少しは今の日本文学シーンの一端の端っこくらいは味わないと…

と言いながら、今回も読むのは海外文学ネタではないか…しかも五大文芸誌でもない…


早稲田文学2015冬号を購入。名付けて「世界文学ケモノ道」。この前の号から、早稲田文学の編集委員6?人が一人ずつ「責任編集」しているみたいで、この号が藤井光氏の号。2015年なので、この号に「近日刊行」とあるものは今出ているのかな。グァテマラとか「収集家」とか。でも、タイのバス待ち小説はまだだよね。
(2018 07/19)


韓国出版都市と「国際線ターミナル」とダヴィドフの「望遠鏡」


ちら読みで申し訳ないけど、「編集委員から」のコラムで東浩紀氏が韓国ソウル郊外、北朝鮮との国境付近にあるパジュという街の「出版都市」について書いてた。日本とどっちが幸せか、と書いてあったけど、自分としては国家から支援を受けない日本の方がまだよいような気がするのだけれど・・・この辺は韓国の人の話も聞かないと・・・
同じコラムから「誤訳」は「創作」なのだ、と藤井氏・・・
(2018 07/22)

早稲田文学は藤井氏の「国際線ターミナル」とダヴィドフの「望遠鏡」。後者はこれもなんかすれ違いな対話が深い掌編。前者は単行本になったかな。
(2018 07/29)

エドゥアルト・ハルフォン「遠い」

ハルフォンはグァテマラの作家、であるけれど、先輩のアストゥリアスやレイローサとは違い、日常の何気ないことからミニマルに語って行くタイプ(最近ラテンアメリカ地域で増えてきている(アルゼンチンのセルヒオ・チェイフェクやチリのアレハンドロ・サンブラなど))だという。この「遠い」を含む短編集が白水社エクスリブリス「ポーランドのボクサー」として出ている。この「遠い」でも、作者そのものの名前で出てくる大学文学講師の祖父のアウシュビッツ体験がちらりと出てくる(訳者は同じ松本健二氏だけど、短編タイトルはここでの「遠い」から確か変えているはず)

さっき書いた通り、グァテマラの私立大学で文学講師をしている語り手。世界の著名な短編の講義(この中でいくつ読んだ?)をしている中で、周りの無関心な学生とは異なる二人の学生と会う、という展開。その一人フアン・カレルが父の死によって退学し、語り手がその後を追ってカレルの出身の村を訪れる。
「遠い」というタイトルを感じさせるのは、例えばその村でのこんな場面。

 私は彼女と自分を隔てているあらゆる格子窓のことを、ありとあらゆる障害のことを思い、無力感に襲われた。
(p33)


村で唯一の店で、格子窓越しに見た店の少女。格子窓は、グァテマラの何か特有の事情だけではなく、もっと一般化されたものも含む、近づこうとするものを無言で拒む「遠さ」なのだろう。
あとは、この短編で気付いたのは、インディオ先住民の料理の仕方や土地の名前、現地語の響きなどを、一つ一つ確かめようとしている語り手の姿。ユダヤ人始めとする中東出身の祖父祖母を持ち、自身はアメリカに渡って、グァテマラに戻ってきた時にはスペイン語すら忘れかけていたという作家の姿を重ね見る。
(2018 11/05)

「最初の物語」ジョアン・ギマランイス・ホーザ  高橋都彦訳


…ブラジル現代文学コレクション  水声社…を借りてきた。

このホーザは、早稲田文学2015年冬号に「第三の川岸」が訳されている(早稲田文学では「ローザ」になっていて、訳者は宮入亮)。突然カヌーで川の真ん中に停泊して接触を断つ語り手の父親。ノアの方舟への連想も書かれているが、それよりも「第三の男」三途の川の渡し守のイメージの方が自分には近い。ともかく諸外国語に堪能(日本語も?)で新語をたくさん詰め込むところ、ブラジルのジョイスそのもの。
ホーザはミナス・ジェライス州の小都市生まれ。同じ州のミルトン・ナシメントらによって、この「第三の川岸」を歌詞にした歌が作られた。

と読んだのは、早稲田文学の宮入氏の訳の方。その後、高橋訳と見比べてみて、あれれ、結構違うものだなあ、と思った。作品の最後、そして書き出ししかチェックしてないのだけど、高橋訳の方が大仰、というか神がかり的?に書いてあるのだ。それに比べては滑らかな宮入訳では気づかなかったカフカ「判決」の父親との相似も、この訳だから気づいたのかも。

まずはラストシーンから。

 父が僕の声を聞いた。彼は立っていた。水中の櫂を動かし、同意した様子で、こっちにむかってきた。すると、不意に、僕はひどく怖くなった。なんと彼が腕をあげて挨拶の仕草をしてきたからだー最初にそうしてから、なんて多くの年を経たことか!
(p258〜259 宮入訳)

 親父は俺の言うことに耳を傾けたのだ。立ち上がった。頷いてオールを水に浸し、舳先をこちらに向けた。すると、俺は突然、心底から震えたのだ。というのは、その前に親父が腕を上げ、身振りで挨拶したからだーあれほどの歳月が経った後の初めての挨拶だった!
(p56 高橋訳)


ここだけでも随分違う。ほぼ同時期の翻訳のはずだが(時間的には高橋訳の方が後に出た)。下の方が、その場にいるような臨場感があって凄みがある。上の方はそれに比べ後の回想のような感じ。2番目の文とかにもそれが現れている。一番の理由は「父」と「親父」という単語の違いだろうか。

次は書き出し段落の一番最後から。

 しかし、ある日、僕らの父が一艘のカヌーを作ってくれと命じたことがあった。
(p255 宮入訳)

 ところが、何とある日のこと、親父が自分のためにカヌーを一艘注文したのだ。
(p49 高橋訳)


この、筋からいって、一番重要なところ。宮入訳ではするりと抜けて、ああそうですか、という印象だったけど(後で気づいて呆然となる)、高橋訳では、「何と」である。それも「自分のために」。この二つの訳、訳者がどのように作品を読んでいってもらいたいかの着地点が全然異なるのでは。自分の好みは宮入訳の方だけど・・・
(2018 11/25)

追加
作家の名前。宮入訳ローザ、高橋訳ホーザ。
作中の語り手の…宮入訳 妹、高橋訳 姉。

「ポーランドのボクサー」エドゥアルド・ハルフォン  松本健二訳


ハルフォンは早稲田文学のと絡み。「遠い」はこの本では「彼方の」になっている。もともとの「ポーランドのボクサー」所収の短編に、中編の「ピルエット」と「修道院」の各章が順番入れ替えて再編されたのが、この日本版「ポーランドのボクサー」。これはハルフォン自身の指示で、「自分の作品で「石蹴り遊び」をやりたい」という。書かれた作品群が新たな読みを与えられる。ちなみに他の言語版でもまた違った配列になっているらしい。
(2018 12/10)

旧ユーゴとグァテマラとバスク


「兵士はどうやってグラモフォンを修理するか」のスタニシチの二作目は、ドイツの話らしい。早稲田文学2015冬号の対談で、この本の訳者浅井氏が言ってた。一方同じ対談?で、旧ユーゴからの人の中には、これやテア・オブレヒトの「タイガーズ・ワイフ」みたいな作風を好まない人もいるみたい。ラキを家族で乾杯してればバルカン風情満載でこういう映画はだいたいフランス共作だ…とか。

はたまた一方、今読んでる「ポーランドのボクサー」(エドゥアルド・ハルフォン)の3編目には、セルビアのピアニストが出てくるのだが、彼に語り手ハルフォン(オートフィクションと訳者が名づける独特の、しかし今の世代に主流になりつつなりそうな、この手法)はセルビア語で挨拶し、驚くピアニストに「クストリッツァで覚えたのさ」と言ってのける。セルビア・クロアチアという、外側から見ると断絶しているように見えるこの地域も、ほとんど同じ言葉話していることもあって、割と相互の情報流通があるとか、逆にハルフォンのグァテマラはスペイン語一色ではなく、現地先住民の様々な言葉が入り組んでいたり、はたまたスペイン・バスクでは外国文学をスペイン語通さずにそのままバスク語に翻訳したり(アジア・アフリカとかの文学も含まれる)。バスク語を生かすために幅を広げているわけで、アチャーガの若い頃とは状況が変わってきた。
(2018 12/26)

早稲田文学に掲載されてたアチャーガ(アチャガ)の「アコーディオン弾きの息子」新潮クレストブックで出た。もちろん訳者は金子奈美氏。2020年5月。
(2020 06/26)

アンテ・トミッチの「どこに駐車したか忘れた」亀田真澄訳

久しぶりにこの本から、アンテ・トミッチの「どこに駐車したか忘れた」(亀田真澄訳)を。
作者は1970年生まれ。出身のスプリットやその周辺のダルマチア地方を舞台にすることが多い。この後の対談でもある通り、バルカンとかクロアチアとかよりもっとローカルな文学が逆に世界文学となっていく、そういった一つの例だと思われる。
とかいう話は置いといて、短い短編だけれども、短編集の表題作となっているだけあって、最後のオチで、ゴガがどうなったのかいろいろ考えられるのが楽しめる作品。他のも読んでみたい…
(関係ないけど、この本から3冊読んだんだな、「世界収集家」「ポーランドのボクサー」「アコーディオン弾きの息子」…)
(2023 03/05)


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