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「悲しみを聴く石」 アティーク・ラヒーミー

関口涼子 訳  白水社エクスリブリス

悲しみを聴く石


昨夜から「悲しみを聴く石」(原題「サンゲ・サブール」)を読み始め。
ト書きみたいな部屋に宙吊り視点な語り方で、世界のどこか(想定はアフガニスタン)の、戦争で負傷した夫を看病する妻が描かれる。
標題の悲しみを聴く石は、人々の悲しみを聴き、ある時点で壊れ、それによってその人が解放されるという、落語の「堪忍袋」の悲しみ版みたいなもの。こういう仕組みというかアイテムというかも、案外に似ているものが各地にあるのね。 
(2017 12/27)

宙吊りになった語り手

 <武器のもたらす快楽を知る者を決して頼みにするべからず>
(p66)


これは昔の格言の形をとっている。武器を手に取っている男達は、それそのものが快感になっているから、女無しでも生きていけるというそういうこと。この後の展開の夫の秘密ともオバーラップする内容。

 私の思い出はいつも、待っていないところに現れるの。そうでなければ、もう待たなくなった時にやってくる。どうしようと、思い出は私に襲いかかる。よい思い出も、わるい思い出も。
(p116)


女を娼婦だと思ってやってくる若い兵士との最中に「思い出」に襲われて笑い出してしまったことのあとで。

女の語りはぽつぽつと、また自分の語りに罪悪感を覚えながら、往きつ戻りつ進む、というのも女自身が語ること、告白することに慣れていない為。
相手が植物状態の夫、サンゲ・サブールだからこそ、女は話すことができる。父親の鶉を逃して猫に殺させたこと、似た境遇で娼婦となっていた叔母に(本当は夫のせいでできない)子供を授けるために目隠しした若い男と何回も性行したこと、などなど。内容もさることながら、語りの少なさと、時に過剰になることに、強く惹かれる。

解説の中の作者の言葉から

 彼女は私を、天井に設置されたカメラのように定位置につけ、(中略)そこで、『いいからそこに座って私の話を聞きなさい』と言ったのです。そういうわけで、この小説では、語り手は部屋から出ることができません。この語り手は、舞台を歴史的、地理的に位置づけることも、登場人物をその名で呼ぶことも出来ないのです。
(p153〜154)


ここで作者の言う語り手とは、作者自身の視座のこと。だから、戯曲のト書きみたいに固定された部屋の内部の宙吊り視点になる。読者もまた。
また作者の言葉から。

 自分がその中で育った言語にあっては、口にすべきではない言葉を内在化し、無意識のうちにこういった言葉を口にするのを自らに禁じてしまうでしょうし、結果的に検閲を受けているような気持ちに陥ったことでしょう。母国語とは、禁止とタブーを学ぶ言葉なのです。
(p155〜156)


作者ラヒーミーはアフガニスタンにいた頃からフランス語教育を受けていて、それから20年以上もフランスに住んでいる、それでもこの作品を初めて母語のダリー語(アフガニスタンのペルシャ系言語)ではなく、フランス語で書くことにこのような印象を持つ。
語り、告白が困難なのは女性だけでなく男性もそうであるということが、先に挙げた若い兵士などを筆頭に、フランス語で辞書を引きながら書き綴るラヒーミー自身にも、改めて思い至る。
(2017 12/31)

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