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「ヴァルター・ベンヤミン-闇を歩く批評」 柿木伸之

岩波新書  岩波書店

プロローグ
第一章 青春の形而上学-ベルリンの幼年時代と青年運動期の思想形成
インテルメッツォⅠ クレーとベンヤミン
第二章 翻訳としての言語-ベンヤミンの言語哲学
第三章 批評の理論とその展開-ロマン主義論からバロック悲劇論へ
第四章 芸術の転換-ベンヤミンの美学
インテルメッツォⅡ アーレントとベンヤミン
第五章 歴史の反転-ベンヤミンの歴史哲学
エピローグ-瓦礫を縫う道へ
ヴァルター・ベンヤミン略年譜
主要参考文献一覧
あとがき


檜垣立哉他「ベルクソン思想の現在」より。


最後にベンヤミン。ベンヤミンとベルクソンはほぼ同時期にパリにいて、ベルクソンは国際的な様々な運動をしていた人だけれど、ベンヤミンはベルクソンを引用しているのに、ベルクソンは何もしていない。フランクフルト学派の社会研究所のパリ支部設立をベルクソンは支援していたようなので、今後書簡などが出てくる可能性はある。

 ベンヤミンの場合には、1930年代になると、機械的な技術を媒介にした写真や映画を見すえている。そこでは時間が一直線ではなく、ベルクソン的に言えば等質的な連続ではなくて、異質的な断続性があって、そこに過去が回帰してしまうのです。そうした出来事が無意識を孕みながら生じてくる媒体として映画の映像と写真を捉えようとしていたのです。
(p77)


これは会場に居合わせた、柿木伸之氏の言葉。岩波新書でベンヤミン論有り。
(2023 01/08)
というわけで…

プロローグ

 批評するとはむしろ、作品の全体の「仮象」の輝きをいったん止めながら、その細部へ分け入り、彼が「真理内実」と呼ぶ核心を取り出すことである。
(p8)

 ベンヤミンは、全体を輝かしく誇示するものに対しては破壊的に作用しながら、その内奥で息を潜めているものに細やかに応える微視的な思考を駆使して、地上の世界の廃墟を凝視し続けた。このような彼の思考を貫いているのが、批評にほかならない。
(p9)


細かく裏に潜んでいるのを見るのが批評の始まり。ここは雑多なものを渡り歩いて見る姿勢とともに自分に割とあるとは思うが、決定的にないのが統合する力。それこそが批評なのだと思う。あの様々な「パサージュ論」の素材をどうやってまとめ上げるのか。見当もつかないけれど、宙に浮いた期待もする。

 後年のベンヤミンは、言語の根本的な肯定性を、言語の情報化が進行した世界のなかで、言葉がその道具的な機能を越えて一つの像に結晶するところに甦らせようとした。ただし、ここであらためて銘記されなければならないのは、像が批評的な認識の媒体として、書の間欠的な律動とともに描き出されることである。このことには、神話的に自足し、崇拝の対象ともなるイメージ-ファシズムは、これを支配の手段として再生産し続ける-に対する批判も含まれている。
(p12-13)


一つの像として固定してしまうのではなく、細分化し続けて束の間現れた結晶を掬い上げる、というわけか…言うは易し…という。
(2023 01/22)

第1章「青春の形而上学」


学校改革の主唱者ヴィネケンとの出会いと決裂(戦争が若者を成長させるというようなヴィネケンの主張が最終的にベンヤミンは絶縁状を送る)、友人であり詩人であったハインレの自殺(ベンヤミンがどっちつかず?で1914年の8月、軍隊に志願しようとしていた時期の事件)などを経て、第一次世界大戦へ。この時期のベンヤミンの作品として「青春の形而上学」があり、「対話」「日記」「舞踏会」の三部構成となっている。

 沈黙においてこそ、力は甦った。聴く者は、対話を言語の辺縁へ導き、語る者は、ある新しい言語の沈黙を創り出したのだ。語り手とは、この新たな言語に最初に耳を傾ける者にほかならない。
(p41)


沈黙の言語とは難しい表現だが、これと対比されているのが、男同士の論争、弁証法の言語というところから考え出してみるのがいいのではないか。ベンヤミンによれば、こうした対話の相手として考えていたのが娼婦であるらしい。娼婦というテーマがベンヤミンの中でどう変化するのかも、読みどころの一つかもしれない。
(2023 01/25)

インテルメッツォ1「クレーとベンヤミン」


この二人、結構似ている生涯でもあるのだが、面識はなかったようだ。まず「奇跡の上演」というクレーの絵を妻ドーラから贈られている(1920)。そして翌年画廊にあった「新しい天使」を購入する。
「新しい天使」の方はベンヤミンの亡命直前まで、居室に飾ってあった。パリを去る時に、「パサージュ論」の草稿などとともにジョルジュ・バタイユに託し、国立図書館の奥に隠していた。戦後、この絵はアメリカに亡命していたアドルノへ、そして彼の死後はショーレムへと渡り、その死後はイスラエル博物館の所蔵となっている。一方「奇跡の上演」は亡命準備中に売却してしまい、現在はニューヨーク近代美術館が所蔵している。
2016年ポンピドゥー・センターでのクレー回顧展で、この両者は再会している。それを著者柿木氏も見たという。

第2章「翻訳としての言語-ベンヤミンの言語哲学」


ショーレムとの出会い。マルティン・ブーバー批判(ブーバーは戦争でユダヤ人が共同して住める土地を得ようと、戦争賛成の立場をとった)。こうしたシオニズム的思想も批判。

 言語とは何か。例えば人間は、アーレントが人間存在の基本的な条件として述べているように、つねに他の人々とともに生きているが、その際に言葉を交わすことは欠かせない。あるいは、それぞれの事物が意味を帯びて立ち現れてきて、文節化された世界が開かれることは、人間という脆弱な生き物の生存の条件をなしているはずだが、ここにも言語が介在している。
(p69)


言語イコール生きること。生きるために必要な道具というより、生きることそのもの。ベンヤミンは言語をそう捉えているようだ。

 なぜ言葉が発せられるのか。それは何かを、あるいは誰かを、その名で肯定するからである。
(p76)


言葉をいうこと、それはそのことにより無条件に肯定することだ。

 目の前にしているものに言葉を見いだすこと-これがいかに困難でありうることか。しかし、ひとたび言葉が到来するなら、それは現実を小槌で打ち、銅板から打ち出すようにして、現実から像を浮き立たせる。
(p79 エッセイ「サン・ジミニャーノ」)


サン・ジミニャーノはイタリア・トスカーナ、塔が林立する古い町。この銅版から打ち出す像というのが、自分のイメージに食い込んでくる。

 「生命を吹き込まれた自然においてであれ、生命を吹き込まれていない自然においてであれ、何らかの仕方で言語に参与していない出来事や物は存在しない」。地上の世界は、ベンヤミンが「言語一般」と呼ぶ、人や事物がそれぞれ自己自身の存在を伝える言語に満ちている。
 ただし、未だ声を持たないこれらの言語は、それに呼応する言葉を見いだすときに初めて響き始める。
(p80)

 欠片が一つの器の断片と認められるように、原作と翻訳の両者を、一つの大いなる言語の破片と認められるようにする。
(p89)


「一つの大いなる言語」…これは「純粋言語」とも呼ばれるが、ベンヤミンが考えていたのは、バベルの塔の際に諸言語分断される前の、p80の文章で言われている言葉。翻訳は成果を一つの継ぎ接ぎのない完成しているものにするのではなく、原作も破片の継ぎ接ぎならば、一つ一つの破片をそれに呼応するように探し、また別言語の破片の継ぎ接ぎとして提示すること、なのだという。そしてその時、双方の言語に少しずつ変容が浸透してゆく。
(2023 01/26)

第3章「批評の理論とその展開-ロマン主義論からバロック悲劇論へ

 初期ロマン主義における反省とは、自然の内部で思考の過程を振り返る働きというより、絶えず再帰的に自己を表現する過程であり、個々の芸術作品がおのずから立ち現われるとき、そこには芸術そのものも表れている。
(p101)


作品に内包され、自己展開しながら再布置していくものかな。

 この視点を含んでいるがゆえに、ゲーテの作品は、宥和の象徴としての美しい仮象として自己完結することはない。そこにはむしろ、作品の自足性を打ち砕く「表現なきもの」の力が働いている。そして、その力こそが、作品の「真なるもの」-それはそこで、小説のなかでそれとしては語られることのない、希望としての宥和である-との関係を示しながら、作品を「真の世界の破片」として完成させるのだ。
(p114)


ゲーテの「親和力」論で、ベンヤミンが着目するのは、本編ではない挿話「隣どうしの不思議な子どもたち」。本編だけだと作品の神格化と死の賛美につながる。それをこの挿話があることによって、双方破片化しつつ配置される。

 批評はまず、作品の燃えがらを拾い上げ、化学者さながらその成分を分析する。これが「事象内実」の註釈であり、註釈を重ねながら批評は、謎めいた炎を揺らめかせる作品の「真理内実」へ迫っていく。
(p116-117)

 悲劇の理念はむしろ、「名」としての言語を媒体として、星々の「布置」として描き出されると述べている。
(p121)


これは「ドイツバロック悲劇」から。引用文を再布置してその作品に語らせる方法は、のちの「パサージュ論」へと繋がっていく、ベンヤミンの批評姿勢。
ここで引用してこなかった第2節、「暴力批判論」は、神話的暴力を批判し神的暴力を受け入れるというこの論は、ベルクソンの閉じたものと開かれたもの、それに続いてレヴィ=ストロースの冷たい社会と熱い社会などと繋がる。前にはソレルの「暴力論」があり、後ろにはデリダの「法の脱構築」へとつながる。
ベンヤミンはリルケとも会って仕事を斡旋してもらったり、ホフマンスタールは論文を受理してくれなくて困っていたベンヤミンを助けて自分の雑誌に全文掲載したりもした。そしてこの章最後にはアドルノが。1930年代後半には、自身の批評姿勢を形成する手助けになったベンヤミンを批判することになる(らしい)。
(2023 01/27)

第4章「芸術の転換」

 この岩山のように、建築も多孔的である。中庭、アーケード、さらには階段で、行動が建物を造り、建物が行動を生む。あらゆるもののなかに遊動空間が確保されていて、それによってすべては、予想もつかない、新たな布置の舞台となりうる
(p131)


「ナポリ」より。この作品はベンヤミンがカプリ島で出会ったリガ出身のアーシャ・ラツィスとの共同執筆。
ベンヤミンはブルトンらのシュルレアリスムの運動にも注目していた。自分的にはあまり今まで結びついていなかった両者なのだが。それに関連したモンタージュの手法を使った、p135の「一歩通行」の表紙(サシャ・ストーン)がかっこ良すぎる…
(ちくま学芸文庫版「写真小史」の表紙にはこの写真が使われている)
続いて「カール・クラウス」から。

 しかし、根源と破壊が互いに相手を見いだすところでは、デーモンの支配は終わっている。子どもと人喰いから成る創造物として、デーモンの征服者がその眼の前に立っているのだ。これは新しい人間ではない。非人間であり、新しい天使である
(p137-138)


ベンヤミンはブルジョアの壊滅を望んでいた。ブルジョアがまた帝国主義者とともに戦争という導火線に火をつけている。その導火線を切断するために、ベンヤミンは技術、複製を芸術に転化(でいいの?)していくのだが…ここにアレゴリーが加わる。
(2023 01/28)

 とくに機械が都市生活をそのリズムから決定するようになるという近代の「社会の変動」のなかで、知覚のあり方が変化している。つねに触覚的な刺激を伴う信号や警告音などに瞬時に反応できなければ、生命の危険に晒される社会では、知覚はショックに対する反応へと断片化されざるをえない。そのとき、速度を増して伝達される情報も、映像を伴いながらセンセーショナルな刺激をもたらしている。
(p151)


技術変化・社会変化によって人間の知覚が変わり、それに対する反応・行動も変わる、という観点は自覚していなかった(前にもどこかで見たような気も)。

 ベンヤミンの芸術論は、機械的な技術によって、かつ集団の手で、複数の視点からの批評を介して制作される映画を範に、芸術作品を、触覚を軸とした知覚が新たな集合的な経験として生じ、来たるべき民衆が生成する媒体として捉え返そうとしている。これは新たな「触覚的な性質」を具えた作品が、その強度によって革命的な力を発揮し始める「芸術の政治化」の可能性を追求することでもあった。
(p154-155)


「触覚」というのは、知覚の触覚だけでなく、瞬間的な刺激全体をおそらくは指すのであろう。ここでベンヤミンに惹かれるのは、だからもう一度芸術作品にゆったり触れる時間と態度を取り戻そうというのではなく、この時代にはこの時代に到達しうる方法があるはずだ、と考えているところにある。あと、ここで「芸術の政治化」と言っているのは、(現在すぐ思い出すような芸術が政治に奉仕する、といったような意味ではなく)アーレントの「政治」と同じく、社会に参加する個人のありようといった意味。

 叙事的演劇における中断のショックは、観客に「驚き」とともに状況を発見させる。このとき提示された状況に対して各人が批評的な態度を表わすなら、一つの塊だった観客がほぐれていくなか、劇場に目覚めとしての認識が生じるだろう。そのように集合的な意識の覚醒にも開かれたかたちで、芸術に批評を内在させる可能性を、ベンヤミンはブレヒトの演劇に見ていた。
(p160)


前の映画のところではよくわからなかった「ほぐれた大衆」(p154)がここでやっとわかってきた。けれど、ベンヤミンがブレヒトに接近することを、友人のショーレムもアドルノも懸念していた…のはなぜだろう。プロレタリアートに過信し過ぎというのもあるだろうけれど、アドルノが見逃していたと柿木氏が言うベンヤミンのもう一つの弁証法「静止状態にある弁証法」(p161)とは何だろうか。

インテルメッツォⅡ アーレント

ベンヤミン側ブレヒト側にたぶん見解があるのだろう。アーレントはベンヤミンから渡された手稿を渡米してから社会研究所のアドルノに渡すが、いつまでも刊行しない為に彼らは握りつぶし横領しようとしている、と疑念と怒りの手紙を書いている。

第5章「歴史の反転-ベンヤミンの歴史哲学」


ベンヤミンをパサージュに導いた最大の要因は、ルイ・アラゴンの「パリの農夫」だという。アドルノへの書簡によると、2、3ページ読み進めるうちに動悸がして、それ以上読めなかったくらい興奮したという。

 あくまで個々人の意識の発展から考えようとするアドルノは、ブルジョワ社会の廃墟に散乱している「夢の残滓」としての商品に着目し、例えばアール・ヌーヴォーの生物的な意匠が示す、新しさと太古のあいだの緊張を凝視するというベンヤミンの独特の唯物論を受け止めきれなかったようだ。
(p174)


「静止状態にある弁証法」とはこのようなことだろう…どうだろう…自分はアドルノ側にいるのかな、でもだからこそベンヤミンの思想が魅力的に見えるのだろう。不可能に見えることに固執し凝視するその姿勢にも。
p178からの、人類の救済を目的に掲げる「救済史」をベンヤミンはあくまで斥ける、というところは、第3章でよくわからなかった「暴力批判論」から「ドイツ悲劇の根源」それから「技術的複製可能性の時代の芸術作品」を貫く主題であったことが見通せた箇所。

 かつてホメロスにおいてオリンポスの神々の見世物だった人類は、今や自分自身にとっての見世物と化した。人類の自己疎外は、人類が自身の滅亡を、第一級の美的享楽として体験しうる域にまで達している
(p183)


「技術的複製可能性の時代の芸術作品」より

 歴史を語る場所は、上からひと続きに物語りうるところには断じてありえない。そこに立つことは、時の権力者の立場に同一化しながら神話を粉飾することによって、ファシズムに利用されることに終わる。それとともに神話とその暴力の支配が、すでに見たように破滅的に継続してするのに対して魂の奥底から抗いうる場所は、今や地の底でしかありえない。
(p185)


カフカの「オドラテク」や「毒虫」が蠢く、そこから。

 思考には運動とともに想念の静止も含まれている。思考が緊張に充ち満ちた布置において静止するに至る地点、そこに弁証法的像が現われる。それは思考の運動における中間休止である。その場所は、言うまでもなく、けっして任意のものではない。
(p192 「パサージュ論」の覚え書きから)


(ベンヤミンは中断、休止だけど、ベルクソンは持続、連続だよね)
「任意ではない」というところに注目。それは突然見えてくるもの。カントの「汝なすべし」と同じ。あちらは行動、こちらは像。

 引用すること自体が、言葉を文脈から剥ぎ取る破壊性を含むように、引用によって歴史を語るとは、神話的な物語を「逆なで」し、破局の犠牲になった者たちの記憶を、歴史主義的に物語られる因果の連鎖から解放して救い出すことである。そうして初めて、死者の一人ひとりが何を体験したかが言葉になる。歴史を書くとは、神話としての歴史に抗して、それが抹殺した死者と、この死者が巻き込まれた出来事とをその名で呼び出し、死者の記憶を証言することである。
(p204)


ギンズブルグの「歴史を逆なでに読む」の「逆なで」は、ベンヤミンの「歴史の概念について」から取られたと思う。ここでいう「歴史主義」はベンヤミンの用法では、因果の連続で語られる「公式」の歴史の手法のこと。「神話」がそれにより作られる。

エピローグ


まずは扉の「破壊的性格」から。

 とはいえ、どこにでも道を見るがゆえに、彼はあちこちで道を拓く羽目になる。
(p208)


ベンヤミンはやはり瞬間の人。そういう精神構造でもあったのだろう。そこは自分と似ているかも。
ベンヤミンが自殺したスペイン側にあるポルボウの町。アーレントが1941年(自殺後4か月)訪れた時には彼の名を見出すことはできなかった(墓地使用料は5年分払っていた)。現在、記念碑やモニュメントがある。「文化財なるものは、同時に野蛮の記録であるということなしに、文化の記録であるということはありえない」(「歴史の概念について」)と記念碑にはある。そのこと自体が「文化財」なのだが、いついかなる時にもそれを問うべき、というメッセージも含まれているように自分には思える。

 彼は『パサージュ論』のための方法論的な覚え書きの一つで、「歴史はいくつもの像に分解するのであって、いくつかの物語に分かれるのではない」と述べている。
(p231)


ここでの「物語」は因果を俯瞰する、支配者に同一化した「物語」。ここは野家啓一氏に聞いてみたいところ。「物語」の可能性と危険性といったところか。たぶん、人間は物語無しには生きられないから、物語が「物語」化しないように。それとも「像」と物語(「物語」ではない)は等値あるいは包合関係?

 ベンヤミンの思考は、人間が造った仕組みによって生きることがあらゆる方向から締め上げられ、むしり取られる歴史的状況に踏みとどまって、あくまでその内部に、息を通わせる隙間を「瓦礫を縫う道」として見通そうとしたのだ。
(p233)


「瓦礫を縫う道」は先程の「破壊的性格」の続きにある言葉。道を切り拓いても、すぐに後ろの道は塞がれてしまう。ベンヤミンは実際にはもっと早く亡命できたはずだ。しかし、一度収監された後でさえパリに戻って図書館に籠る生活に戻る。それは「パサージュ論」のために声を聴く為に踏みとどまったのだ。この時代の様々な亡命の中で、ベンヤミンのケースは稀有な例といえるだろう。
今日みっちり読んで、この本読了。
(2023 01/29)

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