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「遠い部屋・遠い奇跡」 ダニヤール・ムイーヌッディーン

藤井光 訳  白水社エクス・リブリス  白水社

本屋B&Bで購入。
(2023 12/02)

「電気技師ナワーブッディーン」


(◯◯ディーンってパキスタンに多いのかな? この短篇中では「ナワーブ」と略して呼ばれている)

さて、この「遠い部屋、遠い奇跡」は連作短篇集。短篇集を束ねるのはK・K・ハールーニーという農園主。この短篇時点では老いてラホールに住んでいるらしいが。そのハールーニーに使える電気技師ナワーブッディーンがこの短篇の視点人物。技師といっても、電気メーターをごまかして節約したりするのだが…
このナワーブ(自分も略称で…)、なんと子供が13人。娘が12人でやっと息子が生まれたところ。なので、生活は苦しく…ハールーニーが農園来た時にバイクを買ってもらった。そのバイクで行動範囲広げて働いていたのだが、ある夜、銃を持った強盗を乗せてしまう。近くの村の人々も交えて撃ち合いの結果、ナワーブは足を撃たれたのみ、強盗の青年はその夜亡くなった。
強盗青年が亡くなる直前、村の医師の部屋で、ナワーブと強盗が話す。ナワーブは青年の話を突き放して聞いているが、亡くなった時、自分とどこがどう違ってこうなったのか、その違いは全くの紙一重ではなかったか、とおそらくは感じたのだろう。

 地面に倒れたナワーブは、最初、殺されたのだと思った。シタンの枝越しに見ると、月に照らされた青白い空が左右に揺れ、お椀に入った水がゆらゆらしているようだった。
(p22)


殺されて倒れた時もこんな景色を見るのかな、と感情が少し入りこんだような光景の描写の文章。
(2023 12/22)

「サリーマー」

父親も夫も麻薬漬けという下層社会出の娘サリーマーが、ハールーニーの屋敷で働き出す。自分の娘に手を出す父親始めとして、サリーマーと関わる男は全て彼女を正面から扱わない。いっとき、受け止めてくれたかのような執事ラフィークも結局はまた。この連作短篇集はそのようなすれ違いの連鎖でできあがっているのかも。そういう中心主題に、この連作短篇集という形式はよく合う。

 サリーマーの心のなかの井戸が揺れ動いた。人生の悲しみすべて、その暗闇のなかにある甘く濃い水は、彼女の思考の奥底に常にあったし、そこから彼女は冷えた水を汲み上げて飲んでいた。
(p65)


妻子あるラフィークの子を産んだサリーマー。彼女は心の防御が緩んだ時に昔から蓄えた水を飲む…この時もきっとそういう時…この小説全体は「汲み上げ井戸小説」かもしれない。「屋敷・農園小説」の中の…
ハールーニーが亡くなり、世界各地にいた娘達が一旦戻ってきて、屋敷を売ることになる。使用人達もお金もらってここを離れることに。

 その地区の大邸宅は次々に取り壊され、醜いアパートや都市住宅に変わっていた。すべてが失われつつあった。かつては馬車が置かれ、日没時には英国弁務官の屋敷の芝生に国旗が下ろされていた。なくなってしまえば、使用人たちはこのような場所はもう二度と見つけられないだろう。威厳ある屋敷、心優しい主人、広大で湿った部屋、ゆったりとした悲しげな時間の歩み。混沌のなかの秩序。
(p67-68)


…「屋敷・農園小説」であるこの小説の、舞台設定そのものが消え去る、読者にとって読む拠り所がなくなる軽い目眩のような瞬間。
というわけで?解説から引用。

 「遠い部屋」で生きている人々の存在に光を当てると同時に、部屋から部屋へと動いていくようにして、いくつもの人生が交錯する瞬間を優雅に描き出す
(p305)


実際に、大きな屋敷であり農園であるのだろうけど、この短篇で言えば、サリーマーの部屋と屋敷の使用人が集まる部屋など、読み手の心理的距離が「遠い」ような、「部屋」が各々独立して浮かんでいるような、そんな感覚がこの小説にはある。
(2023 12/26)

「養え、養え」


このタイトルの意味がよくわからないのだが、話はハールーニーの農園管理人ジャグラーニーの成功と死。このジャグラーニーも、いろいろなことを強引にあるいは誤魔化して権力と富を築き、州の議員にもなった。運転手ムスタファーの妹ゼーナブ(これも夫あり)が連れてこられて、ジャグラーニー(これも妻子あり)と関係を持つ。が、実力者ジャグラーニーの死によって、彼の息子は政界を追われ、ゼーナブは去ることになる。
次の文章はこのジャグラーニーの回想。

 初めの頃、ジャグラーニーは片側に座り、無口で抜け目ない様子で、ちょっとした合間にそつのない言葉を挟んだ。後になって地位を得ても、たいていはじっと耳を傾けていたが、唇を固く結び、笑みになるまいとしつつ、短くもちょっとした気の利いた言葉を発して周囲を和ませ、好きに話していいという合図を送っていた。彼の社交はそうした気晴らし以上のものにはならなかった。
(p103)


この作家って、こういう場の雰囲気を出すのが巧みだよなと思う。続いてジャグラーニーが最後に、ゼーナブの部屋を訪れた場面から。ゼーナブは子供ができないため、元の彼の妻の子供を強制的にゼーナブのところに連れてきた、その子を寝かしつけている。

 今になって、これまで何年も、いつ到着するか分からないまま彼を待っていた彼女が、どれほど孤独だったのかに気づいた。彼が来てもまったく騒ぐことのないその様子のせいで、彼女の日々のすべてがその瞬間のためにあるとは思い至らなかった。
(p104-105)


どちらもぎりぎり正気を保っていた、何とかどちらの心の隙間にもか細い糸が通じた、最後の瞬間。
(2023 12/27)

「燃える少女をめぐって」


ハールーニーの料理人(ハサン?)とその息子達。どうやら息子達が父親の貯めていた金を盗んでいたらしい。兄の妻もそれに加わっていたが、警察の取り調べ(これは裏でいろいろ稼げる、と踏んで)が執拗なのに憔悴したこの妻が危ないと見た兄弟は、彼女を焼き殺してしまったらしい。
というおおまかな話、弟(ハールーニー家でも、今回の語り手の判事の家でも役立っていた)が果たしてどのくらい彼女を殺した件に関わっていたのか。というのが争点。
でも、なんだかみんな清廉潔白な人物ではないようで…
(2023 12/28)

「遠い部屋、遠い奇跡」


(原題の「遠い」は「other 」となっている。そういう意味もあるのか、あるいは訳者藤井氏の意訳か)
この表題作、連作短篇の核となっているK・K・ハールーニーに一番フォーカスが当たっている作品。ハールーニー一族?はかなり大きく、K・K・ハールーニーが成功者の大地主であるならば、没落したハールーニー一族もいる。今回の視点人物フスナーはそんな没落してしまった一家の娘、かつ今は別居中のK・Kの妻のところで働いている。そんなフスナーがK・Kのところに現れる。
物語序盤ではフスナーに同情的に読めたが、終盤になってK・Kの信頼得てからは引いてしまうような行動を取ったりもする。でも、自分の気持ちに忠実でかつ誇りと理性を失うことなく、K・Kの死後、屋敷を後にする。

 彼女は正式な食事室のそばを通り、K・Kの先祖たちの黒ずんだ肖像画や、二十世紀前半のK・Kや家族たちの写真が掛かった廊下を抜けていった。彼女はこの邸宅に萎縮していた。重苦しく暗い雰囲気はK・Kの明るい物腰とは対照的であり、家中にある奇妙で数知れない品々はほとんど理解できないように思えた。
(p149)


これは中盤。フスナーがK・Kと関係を持つ昼の前の描写。この萎縮する屋敷全体が「遠い部屋」なのか。そして、この作品最後に亡くなるK・Kの後には、この屋敷自体が売られていく(「サリーマー」の最後でも描かれていた)。

「パリの我らが貴婦人」


これは、パキスタンを離れ(最初はカラーチーの屋敷だが)、ハールーニー一族でもあるスヘールとアメリカ人ヘレンという結婚寸前の二人と、スヘールの両親がパリで合流し過ごすという(ホテルは異なる)話。まだ本全体を読んではいないが、この短篇が一番好みになる気がしてくる。
それと、スヘールは作者ムイーヌッディーンに一番近い気がする。

 「ねえ」彼女は考え深げに言った。「セーヌ川はパリを分けているんじゃなくて、街をつないでいるのよ。ちょうどいい川の幅で、小川なんかじゃなくて、街の中心にある公共の場なのよ」
(p173)


この彼女はヘレン。まだ序盤で、スヘールの両親に会う前の時の会話。このパリのイメージ、これからの二人の何かを象徴しているのではあるまいか…と思って読み進めていく。
両親と若い二人の会合、オペラ座でのバレエ鑑賞、そして特にヘレンとラフィーアー(スヘールの母)との対話は読み応えあり。前のフスナーもそうだった(サリーマーも?)けれど、この短篇集に出てくる女性たちは案外に自分の言いたいことを言う人が多いような(作家が女性だったら違うのか?)。
最後はパリ近郊をドライブしている若い二人。スヘールが迷路園に入っていくところ。

 生け垣は腰までの高さで、彼が迷路を通っていく姿が見えた。楽しいわけではない、と彼女には分かっていた。楽しくはないが、彼は遊んでいるふりをしながら迷路を抜けなければならない。
(p201)


この二人、パキスタンでもニューヨークでも、結婚して幸せに過ごしました…とはいかないのだろう。恐らく結婚しない、してもどちらかが耐え忍ぶ生活になる、そう思う。そうなると忍ぶ方は十中八九ヘレンの方だろうから…とラフィーアーはヘレンに伝えた。p173の「公共の場」、ここの「遊んでいるふり」というところが何を意味するのか。
(2023 12/30)

「リリー」


「養え、養え」で最後にジャグラーニーの息子をはめたタルワーンの甥ムラードと、ちょっと前にロンドンで交通事故に遭って記憶が抜けてしまったリリーとの結婚。リリーはその後、イスラーマーバードの若者の中心にいる。この作品だけ部構成があって今読んでいるのは「イスラーマーバード」という第一部。インダス川とその支流が合流してもしばらくは水の色が混じらない地点で二人はピクニックをする。前の短篇のセーヌ川もこの短篇のインダス川もなんらかの暗示なのだろう…ムイーヌッディーンは(も)川の作家なのだろうか。そしてこの短篇でも他の短編でも必ず出てくるごまかしとピンハネを描く作家でもある。

 二つの主な儀式、シャーディーとヴァリーマーを一つに集約し、要は祝賀の夕食会にする、とリリーは言って譲らず、両家のいとこたちや伯父たち、一家の古くからの友人たち、取り巻き、大酒飲み、結婚式となれば出たがる人々を悔しがらせた。
(p237)


文章の終わりになればなるほど、ユーモアが増す構造…
第二部「ジャルパーナー」は結婚後のムラードの農園。
農園経営に真面目に取り組むムラードと、イスラーマーバードの都会が忘れられないリリー。最初の数ページはなんとかしていたが、10ページくらい経ってイスラーマーバードの友達呼ぶことになった後はすれ違いが続き、リリーはその中のバンピーという男に身体を許してしまう…まだ3か月くらいしか経っていないのに。p264の「情事の始めと終わり」云々の箇所、第一部で「情事の終わり」って出てこなかったっけ?
最後の場面の夜、彼女は外に出て、果樹園の木に登ってじっとしていた。

 身軽に動くものが、茶色い枯れ葉を抜けていく。重く、しかし静かに。離れていく。彼女は身動きをぴたりと止め、耳を澄ました。肌がひりひりしていた。それはずっとそこにいた。黒いものが影から飛び出してくる様子を、彼女は思い浮かべた。ヘビではなく、毛むくじゃらの顔の男が、彼女の喉元に飛びかかる。音は枝の葉が地面に触れるところまで動いていき、そこで、黒いものが草のなかを這って進んでいく姿が一瞬見えたような気がした。
(p267)


解説には「物語の随所に神秘性や不気味さを秘めた光景が描かれ、苦闘するリリーの物語に神話的とも言える深みをもたらしている」(p308)とあるが、ここはまさにそういう箇所…しかし、その晩には何もなかった…
次のページの「予言的その後」は不可避なのだろうか。

「甘やかされた男」

この本最後の短篇。「パリの我らが貴婦人」のスヘールの屋敷から始まる(スヘールの妻はアメリカ人なのだけどソニア…ヘレンではない…もっとも別のスヘールの可能性は…)
それはともかく、「甘やかされた男」はラッザークという老人が、このスヘールの屋敷(イスラーマーバードの)の果樹園で働くことになり、精神障害を持つ?妻と結婚し、お金も貯めてテレビなどを買うなど順調だったのだが、その妻が不意にいなくなり捜索されたが、警察にその件が移った時にラッザークは拘束され拷問される…お前が妻を売ったのだろうということで…これが「甘やかされた」という結末なのか…
家に戻った(このラッザークの「家」と言うのが彼自身を象徴しているような、自作の持ち運びできる家)彼は、それでも一年半生き、その間にまたお金を貯め、今度はこの果樹園に埋葬されるための墓石を買い、そして静かに一人で息を引き取る。ラッザークにしても、彼を雇い入れた執事のグラーム・ラスールも、そしてラッザークの墓で彼のためと故郷のウィスコンシンの雪の下に眠る両親のために祈るソニアも、それぞれがそれぞれの思いを持って、それらが交錯する…そして、妻はどこに消えたのか(出自の家の者が連れ去ったのか、自ら失踪したのか、それとも事故…)。

 山ではありがちなことに、停電になっていた。夕暮れ時、石造りの館の天井の高い部屋はロウソクの光に照らされ、厳粛で寒々しく、無人の教会か、子供たちがいなくなってしまった学校のようだった。
(p299)


ラッザークと妻の間に子供ができれば、別の展開になったのだろう。
この「遠い部屋、遠い奇跡」はまた、「ロウソク小説」とも言えるだろう。もちろんその印象は本の表紙から来るものだけど、ロウソクは儚いながらも周りの人を明るくし暖める。
普段はそれは「遠く」にあるものなのだろうけど。

おまけ

初めてのパキスタンの小説は、どちらかといえば静かな華やかなりし過去が移ろいゆくしみじみな作品だった。自分も含め、日本人のパキスタンに対するイメージはたぶんこれとは異なる、庶民の生活の喧騒とか、移民とか…なのだろうけれど。そちらは、新潮クレストブックスの「西への出口」(モーシン・ハミッド 同じく藤井光訳)かな。こちらはSFっぽい仕掛けもありらしいし、また別のパキスタンの小説が味わえる、と思う。
(2023 12/31)

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