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群像2023年7月号…「論」の遠近法(五大文芸誌も読んでみよう…その5)

五大文芸誌…文學界(文藝春秋)、新潮(新潮社)、群像(講談社)、すばる(集英社)、文藝(河出書房新社)

これら五大文芸誌(以外の文芸誌も)の過去号を図書館で借りてきて、読んでみる企画(と言えるのか)。
読むのはもとより存在自体も知らなかった…というテイタラクな海外好き日本文学苦手な自分も、少しは今の日本文学シーンの一端の端っこくらいは味わないと…


「言葉と物」福尾匠(第1回)


この号のメイン特集は「「論」の遠近法」。10本の批評。2020年から7月号の恒例特集らしい。折角借りたのだから、とその中から読んでみようと…

というわけで、昨夜から「言葉と物」福尾匠を読んでいる。この論に限らず、文芸誌だからか、批評も「連載」なのはちょっと驚く。ちなみにこの「言葉と物」は今号が第一回(何回続けるのか)。「言葉と物」といえばフーコーなのだが、ここでは(少なくとも第一回は)出てくるのは柄谷行人と東浩紀。前者が寄って立つのはウィトゲンシュタイン、後者の寄って立つのがデリダ…「コミュニティの事実上の安定性をコミュニケーションの理念的な普遍性にすり替えることを批判した哲学者」(p123-124)と福尾氏は述べる。

昨日読んだところは「A-1」。柄谷行人の「探究Ⅰ」(このタイトルもウィトゲンシュタイン的?…講談社学術文庫(元々はこの「群像」に連載されていたらしい))と東浩紀の「なんとなく、考える」とか「存在論的、郵便的」とにある読者等への〈他者〉への姿勢を比較している。前者が〈他者〉に対して大上段的に語る「パフォーマンス」、後者が読者への近況報告から始まる「コミュニケーション」…

 開かれのパフォーマンスか閉じたコミュニケーションか、この二者択一に彼(東)は疲れてしまっているように見える。
(p126)

 耐用年数の長い理論的戦略としての「誤配」は、コミュニケーションのなかに、コミュニケーションに見せかけた何かを埋め込む(より正確には、そもそもそうした不純物が埋め込まれていることがコミュニケーションの条件であることを示す)ことを意味するとするなら、それ自体ひとつのパフォーマンス以外ではありえないだろう。
(p126)


特に()内がぞくぞくするが、上の文の二者択一が福尾氏に「罠」と見えるのはこういった側面があるからだという。

続いて「B-1」というパートがくる。冒頭で福尾氏は「批評は批評の外に出なければ批評たり得ない」と書いてあるが故の「自由記述部」が「B」で、批評部「A」と交互に織り込まれる(のか…第一回だけだから違う可能性もあるが)。ただここの「B」の内容がよくわからない…理論ではなく、事例自体が。そして置き配の何が問題なのか。SNSで時折起こる「ボヤ騒ぎ論争」、これが福尾氏によれば、ハッシュタグとか引用リツイートとかを駆使した「置き配」的(アマゾンなどが、郵便箱に入らない荷物を玄関先に置き、その画像を受取人に送ってくる)だという。

 その意味で「置き配的」とは、コミュニケーションのかたちを取った内向きのパフォーマンスである。
(p133)


ということで、今さっき第一回分読み終えた。次号も引き続く?
(2024 01/12)

「文化の脱走兵」奈倉有里(第10回)

この後、寝る前に例の?奈倉有里氏の「文化の脱走兵」を読む。刺激的な連載タイトルとはうらはら(回によって違うかも?)に、10回目の今回「雨をながめて」は雨を巡る奈倉氏のしみじみエッセイ。その中にさらりとロシア文学ネタを入れてくる。ニコライ・ザボロツキーという詩人の「雨」という詩を冒頭だけ紹介している。ザボロツキーは紹介読むとエセーニンの後継らしい。エセーニンはuniteで買った「ロシアの詩を読む」岡林茱萸でも読んだ…ザボロツキーはあるかな。
と「ロシアの詩を読む」を開けば、ザボロツキーは残念ながら出ていない。

「無形」井戸川射子(第1回)

今朝、芥川賞受賞(「この世の喜びよ」)作家でもある井戸川射子の「無形」第一回連載を冒頭1ページちょっと。今のところかなり好印象。1987年生まれ。名前の読みは「イドガワイコ」。国語教師の傍ら(今は教師は退職している)詩人かつ小説家。
(2024 01/13)

続き読んでみた。連載物をこうして読むのは初めて?なので、なんか作品世界の宙に浮いている感じ(この辺、同じ第一回連載でも批評とは異なる)。
特徴…その1、言葉遣いや表記が微妙に違和感ある。ひょっとしたらあまり考えない校正の人だったら直されてしまうかも。

 寝転び胸に両手のひらを置く、その重さで収まるくらいの嫌な思い出しだ。いつか割けて海に沈むかもしれない、どうにか今はその賭けに勝っているだけの部屋だ。
(p84)


「両手のひら」という用例もそんなにないと思うけど、それ以上に「思い出しだ」とか「部屋だ」というのが違和感漂う。ここ以上に違和感ある文章もあるが、イメージがじんわり伝わるここが今回では結構好み。

その2…登場人物の年齢・性別を敢えてあかさない。名前も中性的。人物で言えば、ある人物のことを述べている文の途中で新たな人物が説明抜きで出てくる(第一回だけかもしれないが)。

その3…結構真っ黒な紙面、かつ平面的な世界。最近の日本の小説って行替え多くて紙面が半分くらい空白な印象ある(印象だけ)が、この作家のは一面文字で覆い尽くされている(これは他で見た文庫本でもその印象。真っ黒はちょっと言い過ぎか、サラマーゴほどではないか)。でも、この作品に関してはなんかのっぺりとした感覚あるのね。今の出来事と、子供(そいえば、子供だけ学年書いてあった)の恐竜の絵と、それから思い出と、それも文中で入れ替わったりする。

だから、宙に浮いて困るのよ…作品世界は、海辺の老朽化した団地。この団地の一斉退去が問題となっている。海辺に高速道路あるのは、作家の出身地西宮のイメージ。でもこの辺も…ディストピア小説(最近流行り?)の味わいもあるし、違うのかも知れない…
(この作品だけか、あるいはだいたい共通するのかは今のところ不明)
(2024 01/14)

「列」中村文則…も少しだけ

昨日、冒頭の中村文則「列」もちょっと(2節)読んでみる。これはまたかなりディストピアっぽい。何の説明もないが、全然進まない列に並んでいる語り手?と、彼が気になる後ろの蟹のような男。この「列話」が第1部で、第2部は何か霊長類の研究しているような場所。で、第3部はその両者が重なり合う(重なるけど混じりはしない?)。そんな構成をぱら見して予測。
(単行本で読むか、この号もう一回借りて読むか…というわけで、次借りる群像が7月号か8月号かは結構悩む…)
(2024 01/15)

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