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「十三の無気味な物語」 ハンス・ヘニー・ヤーン

種村季弘 訳  白水社Uブックス  白水社

西荻窪 音羽館で購入

初ヤーン2編


ヤーンの13の短編集を読んでいる。今日で2編目。ヤーンは最近翻訳出た「岸辺なき流れ」三部作の作者で、この短編集も多くはそれと関係づけられている。それからオルガン奏者&制作者でもあり、音楽出版社兼ねた秘密結社「ウグリノ」を作ったりもしている。 
「ラグナとニルス」「奴隷の物語」ともなんか三角関係の話で猥雑さが問題となったこの作家らしい短篇なのだが、ロレンスみたいにそれに肯定的(な気がする)ではないような。とにかくまだ2編。 
(2015 10/25)

緻密と綻び、そして暴力


ヤーンの短編集3、4編目。父親の思い出が挿入された時計職人の話とサーサーン朝のホスロー王の話。なんだか全く関連ない2つの題材だが、ヤーンの作品に共通する構造は持っているみたい。それが標題に書いたもの。
前者で見るとわかりやすいが、どこかに綻びがあって、そこから反転していく世界を体験する。そしてそこには暴力的なものがある。どの短編にも(といっても今のところ4編だけですが)そうした構造が潜んでいる。ユートピア的なウグリノを設立しようとしたヤーンなのに(だからこそ?)…
(2015 10/30)

自動機械の相手と自分


昨日(とその前に)読んだ5・6・7編目から。
5篇目は庭男とそれに導かれた男の妖怪譚、6篇目は完全なる双子の物語、7篇目は街角でオーケストリンを見て泣いてしまった少年の物語。
最初の作品では遠野物語の記述を思い出した、次の作品では双子的設定はこの人のお気に入りというか固定概念になっていたのではという印象を受ける。1・2篇目との繋がりをみる。
ということは7篇目は3篇目との繋がり。デカルト・スピノザの頃が自動機械の第1期だとすれば、この時期は第2期なのか。特にドイツ、マン・ベンヤミンそしてヤーン(それぞれにもちろん方向性は違うけど)と並べてみると…

 (彼にしてもやはりこの手の絶妙なこしらえものではないだろうか?)
(p100)


3篇目の時計職人の息子の成長した姿であるこの少年が、3篇目の時と同じく理性を失いかけたのは、時計やオーケストリンやそして自分自身がからくり機械だと気づいたからではなくて、こうした精密な機械はいずれも滅びの萌芽を中に内在していることに気づいたからではなかろうか。

 なかばは欲望に矢も楯もたまらぬ獣として、なかばほほえみを浮かべた知識人として。
(p114)


これは少年ではなくて、泣いている少年にお金をあげた男の描写から。でもなんとなくこの人間の見方がヤーンには一貫してあるのではないかと思える。
6・7篇とも結末がなかなかよい方に意外で楽しめた。単に悲観的だけの作者ではないみたい。
(2015 11/09)

マーマレードから見る歴史


ヤーン短編集から「マーマレードを食べる人たち」。この短編集の中では長めの短編になる。

 雄の子馬は、骨が一人まえにならないまだほんの幼いうちに、睾丸を抜かれて去勢馬にされてしまう。種馬に育つのはほんのわずかだ。
(p166)


ヤーンの作品はどの短編も寓話的なのですが、この作品などはわかりやすめの寓話で、リズム重視の語り口と相まって、ここから読んでもよかったかも。またこの短編集を流れる自伝的系列でもあるのかな。
とにかく、現代につながる「結婚できない男」の流れがここにある。全体主義、あるいは共産主義が危惧した現象はここにもあるのだろう。人間は自由と衰退の道を選んだ?
(2015 11/14)

わたしの死体


昨日ヤーン「十三の不気味な物語」を読み終えた。

「家令を選ぶとき」「水中芸人」ともに、代表作「岸辺なき流れ」三部作内の挿話でもあるのですが、どちらも死体が重要視というかオブセッションの対象となっている作品。後者の語り手は水中芸人(海に投げ落とされたコインを飛び込んでくわえる)の死体を「これはわたしの死体だ」と感じる。そういえば「岸辺なき流れ」三部作にも似たような構図があるという。

「水中芸人」の老医者は神、娘の頭と手足を切り落とされた死体はキリストになぞらえられているのかな。ラストを読む限り…
最後の「馬盗人」は短めな作品。
(2015 11/20)

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