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絶望感について

「ふみぐらさんは、こんなふうになって絶望感とかなかったんですか?」

みんなも知りたいだろうからあえて、という文脈の中で嶋津さんからそんな問いがあった。Spacesの「対話パーティー」で喋ってたときのことだ。

その問いだけ切り取って興味本位の質問みたいな誤解しないでほしいのだけど、いろんな深い話をした上での問い。

んー。絶望感か…。ここでも僕と嶋津さんが好きな沈黙が僅かに流れた。

答えたくないとかではなく、正直あまり考えたことのないテーマというか事象だったから。

たぶん、あるんだと思う。絶望感の存在そのものを否定的に見たりしてるわけじゃない。ただ、今回の自分の状況ではそれはなかった。

なんでだろう。

絶望とは、文字通り「望みを絶たれる」状態を指すのだと思う。

ここで漢字に注目してみる。「絶望」という言葉には「絶」が使われ「絶つ」の意味合いが強く出ている。「断つ」でも「経つ」でもなく。

「断つ」だと瞬間的で、もしかしたらまた元通りに戻る可能性もある。通信や電波の「断絶」あるいは電気の「瞬断」みたいに。

だけど「絶つ」は、基本的にもう元に戻らない。戻ったとしても違う姿になってるかもしれない。これまであたり前のように続いてきたものが「絶える」のだ。

だとすると「絶望感」は、もう元に戻れないこと、何かを喪失してしまったことに対する限りない悲しみや嘆き苦しみみたいなものなんだろうか。

そんなふうに考えると、やっぱりいまの僕には絶望感が見当たらない。

そもそも元に戻れないのはシンプルに「そりゃそうだろう」って思う。どんな病気だって「なってしまった」ものは戻れない。

これまでのあたり前があたり前ではなくなる日常も同じ。日常生活上で、いろんな制限も出てくるし、制限までいかなくても自分で自分に「うん、大丈夫」って確認しながらになる。

なんだろう。常に自分と対話して生きる感覚。べつに、そういうの嫌いじゃない。

ただ、これも人によっては勢いとかで動けなくなるので「嫌」なことなのかもしれないけど。

あと、たぶんおそらくProbably「死」だとか「どれぐらい生きられるか」を、どうしたって意識しないといけないのが「絶望感」を呼び寄せるのかもしれない。人によるんだけど。

そりゃあね。ふつうに生きてて、自分がどれぐらい生きられるかなんて切実に考えない。僕も以前はそうだったし。

その「ふつう(本来、なにがふつうなんてよくわからないけど)」っていう前提が崩れ去ったとき、それまで姿を隠していたものが目の前に現れる。

けど、それでも絶望ってない。ほとんどない。

不確実な「生」も、本来、誰だってそうなんだし。

ただ、ひとつだけ確かなのは(僕の場合はだけど)過去の延長線上でものごとを考えない。これは自分の特性なのか先天的なのか後天的なのかもよくわからない。でも、そうなってる。

過去の延長線上でこの先を考えたら、たしかに絶望したっておかしくないのだけど、過去の延長線上に何も望んではないから、自然に絶望から遠ざかってしまう。

そうしようと思ってしてるわけでもなくて。

能動的にそうしようと思ってるのは「新しく生きる」をつくることだけ。新しく生きるをつくるのだから、そこに絶望は存在しようがない。過去、関係ないしね。

病気に限らず、どんなことでも絶望感に囚われそうになることはある。雨の中であんぱんが濡れて力が出ないみたいに。それはある。

そんなときは、濡れてぐちゃぐちゃになってるあんぱんは、そっとポケットに仕舞って「新しく」歩いてみる。

もしかしたらバタコさんから新しい顔が届けられるかもしれないし、そうでなくても「新しく生きる」を感じながら歩くのは案外、気分のいいものなんだ。