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立場が思考をつくっている

会議って基本的に好きな人は少ない。たぶんあまりクリエイティブではないからなんだろう。

生産的な時間じゃないというか。中にはすごい刺激されまくる会議もあるけど、まあ稀。

けど、現実には出たいとか出たくないを超えてやらないといけない会議もある。もちろん、根底から変革できる会議もあると思うけど、それにはいろんな条件とエネルギーがいる。

なんでこんな話をしてるのか。

先日、地区の総会があった。前年度、つまり2020年の地区運営についての会計も含めて諸々の報告と、新年度の役員人事だとか規定の改定とかを審議して議決してもらう。

で、一昨年前ぐらいから時空が歪んで僕みたいなヤギが地区のリーダーになったものだから、食べなければいけない紙の量がすごく増えた。

これは僕の村に限らずだと思うけど、地方の場合、自治的な組織は単純に親睦とかだけではなく行政の一部を担ってたりするので、1年中何かしら会議や作業や調整、災害対応とかやることがある。

村には区長がそれぞれいて、その下に僕みたいな地区長がいてほかに消防や、盆踊りとか運動会のイベントを主管する部門などの長もいる。

僕がやることは毎月の役員会で区長からおりてくる仕事を処理したり、各方面に割り振って、お願いに回ったり、進捗を管理したりフォローに回ったり。年間の事業と予算計画を組んで、細かい内容を関係者と詰めていろいろ手配して実施。各種の書類作成や報告書も随時。他にもいろいろ。

昔の会社組織で言えば、僕の役割はなんとなく総務人事課長的な感じ。まごうことなき中間管理職だ。

つまり、とりあえず総務課長のとこ持って行けばいいんじゃねで、いろいろ仕事や相談がやってくる。ほんとにいろいろ。

村のそういう話は脇に置いて、あらためて感じたのは立場が人をつくるというけど、立場が思考もつくるんじゃないかということ。

中間管理職的な立場でいると、そういう思考とか世界観に薄っすらなってしまう。ヤギなのに。あぶないあぶない。

基本的には立場に縛られずにフラットに世界を見つめてフラットに思考をしたい。

自分と相容れない人の「話」は話として聞く。真逆の世界でもそれはそれで知りたい。

そういうのが、どうしても無意識に立場に吸い寄せられる瞬間がある。立場を持ちながらフラットって本当に難しいんだ。

中間管理職になると組織防衛的な思考とか発言がーみたいに忌み嫌われるけど、そういうのは大なり小なりある。好きとか嫌いではなく組織ってそういう要素を含んでる。じゃなければ組織は成り立たない。

佐藤優さんも仰っていたけど「組織は最終的に上の人間の味方」だから。

だから僕は、基本、組織的にはどこにも属さずにライターをやってるし、ライターの立ち位置が好きなんだ。

まあでも、組織のレイヤーから外れて生きてる人間だからこそ、こういうかたちでも組織を身を持って知るのはべつにマイナスではないと思ってて。

書くことを生き方にしてるのだから、そんな世界もちゃんと見つめるのも生き方の中に収まるし、どう収めるかがたぶん大事なんだろうな。